メモリアルコラム
このページは、西南学院の歴史にまつわる話や逸話を大学広報誌『SEINAN Spirit』(季刊)で取り上げた「西南メモリアル・コラム」を転載したものです。『SEINAN Spirit』の発行と同時にこのページにも掲載していく予定です。誰が名付けたのか”ラバーズ・レーン”
かつて「ラバーズ・レーン」と呼ばれていた小道
いつごろかは定かではありませんが、本学と修猷館高校の間の市道が学生の間で「ラバーズ・レーン」と呼ばれていた時期がありました。これは1965(昭和40)年頃に市道が10mほど南側に移設される以前のことで、1963(昭和38)年度の『大学要覧』には「春の若葉、秋の紅葉、大学の行きかえり通るみちLovers’Laneと云われる思い出のみち」というキャプションとともに以下の写真が掲載されています。
さらに1962(昭和37)年度の卒業アルバムや1967(昭和42)年度の『学生便覧』にも写真が掲載されており、深い緑が生い茂り、赤いレンガ塀の続く大学の南側の道は、恋人同士が仲良く歩く姿をイメージして学生の間で名付けられたものと思われます。その後、道の移設とともにラバーズ・レーンという親しみのある愛称も使われなくなりました。今では、通学の行き帰りの背景はずいぶん変わりましたが、その当時の学生には思い出に残る場所だったことでしょう。
(SEINAN Spirit No.176 2011年3月24日発行)
「ドッグウッドの伝説」
大学博物館玄関横の柱のデザイン
皆さんは「ドッグウッドの伝説」を知っていますか。「ドッグウッド」(dogwood;日本名「ハナミズキ」)は、南部バプテスト連盟国際伝道局のあるバージニア州で「州の花」に選ばれています。また。ジョージア州(C.K.ドージャーの故郷でもある)のアトランタは「ドッグウッドの街」として知られ、毎年4月の開花の時期に合わせて“ドッグウッド・フェスティバル”というお祭りが開催されています。
伝説によると、その昔、ドッグウッドはとても丈夫な木でしたので十字架の材料として使われていました。そしてイエスがかけられた十字架にも使われていたのですが、ドッグウッドはそのような残酷な目的のために使われることが辛くてたまりませんでした。そんな苦しむ姿を見かねたイエスはドッグウッドをなぐさめ、二度と十字架の材料にされないよう、細く、折れ曲がった幹とし、4枚の花びらは短く、十字架の形にしました。花びらの先端には、薄茶色の磔(はりつけ)の釘と錆びと血の跡を残し、花の中心には、小さなイバラの冠をつけたという言い伝えです。
かつて、宣教師で英文学の教鞭を執ったグレーヴス先生(1938-76年在職:1940-47は太平洋戦争のため離日)は、このハナミズキを好んで育てておられ、そのうちの1本は、現在、移植されて西南子どもプラザの前で可憐な白い花を咲かせています。大学博物館の玄関の柱には、ハナミズキをモチーフにしたようなデザインがありますが、それがなんなのか、現在、調査中です。
(SEINAN Spirit No.177 2011年7月8日発行)
皇紀二千六百年記念の国旗掲揚台
かつての大学博物館のすぐ北側にあった国旗掲揚台(西南学院高等学校『開設40周年記念誌』より)
太平洋戦争中、国際情勢の悪化によりキリスト教主義学校ということで、西南学院は圧迫を受けた時期がありました。そのような世間の批判を恐れるとともに協力的姿勢を表すために「皇紀二千六百年記念」の国旗掲揚台が西南学院に建立されたのをご存知ですか?
そもそも「皇紀二千六百年記念」とは、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年として計算する方法で、西暦よりも660年前に建国したとして日本の歴史と伝統を誇示しようとする国策によるものでした。紀元節と呼ばれ1940年11月10日に国を挙げて式典などを行ったこの祭りには、ほとんどのキリスト教主義学校が積極的に協力しました。
本学院に建立されたこの国旗掲揚台には、「皇紀二千六百年記念」と彫られ、裏には「昭和十五年十月三十日 西南学院中等部 同商業学校」の文字が刻まれていました。石碑の大きさは、1m32cm、3段の台座で支えられ、台座から計ると2m83cmという堂々としたもので、国旗掲揚のためのボルト2個が取り付けられていました。場所は、当時、中学部の運動場の南側で現在の大学博物館に近いところに設置されていましたが、1983年、高等学校の本館棟の建築に伴い、グラウンド北側のバックネット裏に移築され、その後、2010年8月に撤去処分されました。この”負の遺産”とも言える国旗掲揚台も戦争の記憶として残しておくべきだったのかもしれません。
(SEINAN Spirit No.178 2011年10月1日発行)
ボールデンとハム製造法
昔の面影がしのばれる二の岡山荘の協会
1932(昭和7)年7月、日曜日問題の影響で院長を辞し、学院を去ったG.W.ボールデンは、一時アメリカに帰国。しばらくしてから自費で日本に戻って、来日以来住み慣れた別荘がある御殿場の二の岡に落ち着きました。
静岡件御殿場市は、当時、避暑地として多くの外国人が、ひと夏を過ごすために集まってきていましたが、そこでボールデンは、二の岡のアメリカ村の村長として、地元の人たちにハムの製造法や豚、七面鳥の買い方、家具の製造法などさまざまな知識と技術を教えたのです。それらは地域の産業がなく、農業だけで暮らしていた村人たちに大きな副収入となりました。それ依頼、手作りのハムにこだわり、今では御殿場の名物になっている「二の岡フーズ」は、ボールデンから教えられた作り方を守っています。そのかたわら、ボールデンは、小さな礼拝堂で村民たちにキリストの福音を伝え、また、賀川豊彦が提唱する「神の国運動」では御殿場農民福音学校でも教えたことにより、村民から慕われました。
しかし、時代は戦争へと進んでいきます。ボールデンも最後まで二の岡にとどまろうとしましたが、ついに1941(昭和16)年、日本を離れることになりました。その後は、アメリカ各地の教会で牧師として働いて、1967(昭和42)年87歳で天に召されました。
グレーヴス先生と生け花
日本文化を外国に紹介したグレーヴス先生
西南学院高等学部から大学文学部英文学科を通してシェークスピア作品を中心に教鞭をとっていたA.グレーヴス先生が、草花が趣味だったことはよくご存知でしょうか。女子学生の会が1958年に生け花、読書、歌と3つのグループに分かれて活動を始めたとき、草花に造詣が深いということで、生け花の顧問をグレーヴス先生に依頼しました。「当時、安達式華道の大串華潮先生の下でいっしょに習いました。グレーヴス先生は、その後、その道を極めて教授格になられ、福岡で全国組織の“生け花インターナショナル”を福岡で活動を始めて福岡支部長も務められたんですよ」と語ってくださるのは、女子学生の会の会長で生け花を始めた原田宏美さん(文英文1962年卒)。「先生は草花が好きだったけれども、生け花という日本の文化を外国に紹介しようという意図があったと思います。その頃、日本は敗戦で気持ちも落ち込んでいましたから、どうにかして元気付けようと思ったんじゃないでしょうか」。
生け花インターナショナルは、流派に関係なく、生け花をとおして国際交流を深めるのが目的で、世界中に162の支部を持つ団体。その福岡支部をグレーヴス先生が立ち上げ、当時、日本文化に興味を持つ基地内のアメリカ軍将校夫人や宣教師夫人などに広めました。昨年の10月21日、福岡支部の45周年を祝うパーティーが西南クロスプラザで行われ、福岡支部の設立に功績のあったグレーヴス先生に思いを馳せました。
樹木が伝える物語
メインストリートの夾竹桃も今では7mを越す樹に育った
キャンパスのいろんな樹木や草花が植えてあり、西南の歴史を静かに見守っています。
メインストリートの夾竹桃(きょうちくとう)は、メアリー E.ドージャー夫人が、1969年に亡くなった夫エドウィン B.ドージャー院長(第9代)を記念して1973年ごろ植樹されたものだと言われています。
また、A.グレーヴス先生はアメリカ・バージニアの「州の花」である花みずきを残して1976年に帰国されました。よく見ると花の形が十字架に見えるので、先生の一番のお気に入りの花でした。旧1号館北側に植えられたのですが、現在移植され、西南子どもプラザの前で可憐な花を咲かせています。
学生の寄贈もありました。1955年度の短期大学部卒業生が1万円を募金して、大学チャペルの裏(旧玄関)にヒマラヤ杉12本を寄贈しています。短期大学部が開設されてから5年目のことでした。
また2005年には大学の女子同窓会が20周年を記念して、博物館の前にある花壇にゆりを植えており、道行く人々を楽しませてくれました。これらの他にも樹木にはそれぞれの思いが伝わっており、物語があるのです。
(SEINAN Spirit No.171 2009年12月10日発行)
西南人の心意気-キリスト教撲滅運動に抵抗
事件を報じた九州日報の記事(1940年9月25日付)
1940年9月24日、福岡市西中洲県公会堂において、興亜青年連盟主催で「キリスト教撲滅演説会」が行われました。当時、太平洋戦争が勃発する直前のことで、キリスト教に対する圧迫も、次第に露骨になってきたころです。その演説会でも主催者が大学や学校の教員に対し、離宗勧告やキリスト教主義学校などの閉鎖等を訴えました。そして最後に「キリスト教撲滅のために天皇陛下万歳を三唱しよう」と提唱したのです。
この演説会に母校存続の危機感を持った西南の学生や近郊のキリスト者らも聴衆の中に混じっており、主催者の話を聞いた福岡メソジスト教会の大野牧師が「キリスト教撲滅のために万歳は三唱しない」と発言したため、混乱状態となり、血気盛んな西南の学生も警察に連行されました。
また、翌日には九州日報がこの件を報じ、それを読んだ学生が新聞社に大挙して押しかけて、「我々は天皇陛下に対し万歳を反対したのではない」と抗議したのです。このことは、母校西南に対する帰属意識を高め、西南人をして、かえって、西南の存在の意義と使命とを、新たに自覚させる契機となりました。
(SEINAN Spirit No.172 2010年3月26日発行)
西南学院小学校で歌われた校歌
作詞者の水町先生は、後に第4代院長として尽力された。
2010年4月に待望の西南学院小学校が開校し、4月8日の入学式には学院の各学校・大学と同じ校歌が歌われました。この校歌は1920(大正9)年10月にC.K.ドージャー院長が、翌春の第1回中学校(旧制)卒業式に間に合うよう水町義夫先生に依頼したものでした。
その当時を水町先生が『西南母校だより』に語っています。
「…その頃、私は『新約聖書』の「ヨハネの第一の手紙」を読みふけっていましたので、同書からいろいろヒントを得、また、学院の位置・環境等を頭の中に描きながら筆をすすめました。…「海の青」も「松の緑」も、若々しい「青春の色」であり、「希望の輝」であり、伸び行く「若き西南」の将来を祝福しているというのです。」(『西南母校だより』西南学院同窓会、第1号、1944年10月25日発行)
1921年には中学校の卒業生を受け入れるため、高等学部を新設し、その入学式でもこの校歌が歌われました。水町先生が、歌詞に中学や高校など学校を特定する言葉を用いなかったのは、そのためではないかと思われます。
ちなみに校歌の表記が学校によってあいまいなので、(「希望の輝き」と「希望の輝」など)、正式な表記が1985年5月2日に常任理事会で承認されました。なお、表記については大学のホームページの「大学概要」をご覧ください。
(SEINAN Spirit No.173 2010年7月9日発行)
キャンパスに石灯籠?
写真上/現在のクロスプラザ付近にあった旧西南会館と石灯籠写真下/学術研究所の玄関横に移設された石灯籠
学術研究所の玄関の横に石灯籠があるのにお気づきでしょうか。大学のキャンパスに石灯籠はしっくり来ないような気がします。これは、1937年に現在のクロスプラザ(東キャンパスの西側)の位置に、学院の学生・生徒や教職員の集会所として旧西南会館(現在の西南会館と区別するため「旧西南会館」とする)が建築され、その玄関に石灯籠が備えられました。竣工当時『西南学院新聞』は、「…、玄関の前には灯籠を設けて日本趣味を盛り、…」(第26号、1937年11月11日発行)と報じています。この年、日中戦争が勃発し、国民精神総動員運動が声高に叫ばれました。石灯籠が設置された理由は、和風な趣を加えるためか、あるいは軍の命令や時節に配慮したのか、記録がなく詳細は分かっていません。
1971年11月に大学に新しい集会所が完成して「西南会館」の名称を譲ることになり、新しい施設は「大学西南会館」と呼ばれ現在に至っています。旧西南会館は、その後も使用されることなく在置されていましたが、老朽化が激しく危険でもあったので、1975年に解体されました。残された石灯籠は本館前ロータリーに移設されましたが、そこも1992年に本館前の整備に伴いさらに移され、現在は学術研究所のエントランスの小庭園の一角を飾っています。
(SEINAN Spirit No.174 2010年10月1日発行)
遺訓が刻まれた暖炉の木枠
写真上/西南学院小学校のエントランス
写真下/山の家にあったころの木枠とC.K.ドージャー夫人(1959年)
今年開校した西南学院小学校のエントランスを入ると、建学の精神「西南よ、基督に忠賓なれ」と彫りこまれたモニュメントが目に留まります。これは、西南学院が誕生した大名町(現在の中央区赤坂)から西新キャンパスへ移転した翌年の1919(大正8)年に建てられた旧制中学部第二校舎の古材から作られたもので、現在の大学博物館(1921(大正10)年竣工の旧西南学院本館)よりも古く、その意味では学院でもっとも歴史ある貴重な資料です。
中学部の第二校舎は、高等学校の西校舎として使用された後、改築のために買いたいされました。その古材と南部バプテスト連盟からの寄付によって旧干隈キャンパスに建てられたのが、干隈修養会館(1952(昭和57)年)竣工の通称「山の家」)でした。創立者ドージャーの遺訓が刻まれた趣のある暖炉の木枠は、1982(昭和57)年に解体されるまで30年間に亘り学生や教職員の団欒を暖かく見守ってきたのです。
「山の家」の解体後、この木枠は学院史資料として保管され、本館のエントランスに展示されていたところ、2010(平成22)年1月、小学校の校舎竣工にあわせて貸し出されることになりました。学院の最も古い資料が、最も新しい学校に飾られるというのは意味深いことではないでしょうか。
(SEINAN Spirit No.175 2010年12月24日発行)
11月7日は波多野培根先生記念日(1)
英語、ドイツ語の他、ギリシャ語、ラテン語、ヘブル語にも精通していた
11月7日は波多野培根(はたの・ますね)先生記念日ですが、どのような功績があったかご存知でしょうか。
波多野先生は、1868年に津和野藩の儒学者の家に生まれ、18歳で同志社英学校に入学しました。そこで創立者新島襄に感化を受けキリスト教に入信。卒業後、教育界、宗教界へ進み、校長として同志社普通学校(後の同志社中学)の発展に尽力しました。
その後、西南学院の理事でもあった宣教師E.N.ウヮーンの紹介で、1920年、創立間もない西南学院中学部の教授として赴任。また翌年に開校した高等学部でも講師として教鞭を執りました。当時、53歳でした。
いっさいの役職につかず、ひたすら学問研究と学生生徒の教育に、その生涯を捧げ、明治・大正・昭和三代を学問ひと筋に生きた碩学の人でした。(次号に続く)
(SEINAN Spirit No.166 2008年10月5日発行)
真の愛国を問う-「基督と愛国」
波多野培根先生記念日(2)
速記録に波多野が筆を加えた「基督と愛国」の原稿
波多野は、大学の前進である解説したばかりの高等学部の教師として哲学、倫理学、歴史学を教え、儒教思想と聖書の信仰に立つ古武士的教育者、思想 家として学生・教員に多大の感化を与えました。
この時期は、日露戦争(1904年)から第一次世界大戦(1914年)、更に日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)に至るまで日本が 軍国主義に染まっていった時代でした。
日本の教育が偏狭な独善的愛国教育に傾いていったとき、波多野の道義的歴史観に立つ愛国教育は、これと対立せざるを得なかったのです。そして 1944年6月、西南学院精神文化研究所の開所式で「基督と愛国」と題した記念講演を行い、「自己の国家の利益のみを考えて他国を顧みない本能的 愛国と、正義人道を標準とする道義的愛国」とを比較し、後者のみが国家を永遠の安泰に置くものと語りました。
(SEINAN Spirit No.167 2008年12月5日発行)
戦時下のキリスト教主義教育の拠りどころ
波多野培根先生記念日(3)
洋服を着用せず、羽織・袴の和服で通した
波多野は、講演した「基督と愛国」の写しを文部大臣以下、全国の主だった教育関係者に郵送することを望んでいましたが、実現しませんでした。
その後、憲兵隊や特高警察に監視されていたため学院に迷惑がかかるのを恐れて、1944年8月、京都の自宅に帰りましたが、その翌年、11月7日 に78歳で天に召されました。
中学部、高等部で23年間、ひたすらキリスト教主義教育に身を捧げた功績により1950年から学年暦の中に「波多野培根先生記念日」が設定された のです。また蔵書(2,357冊)は本学図書館に寄贈され、「波多野記念文庫」として設置されています。その後、薫陶を受けた教え子によって、 1977年、遺稿集『勝山餘籟』が編集されました。
その生涯は、西南学院の学生、教職員にとって単なる教育者というだけでなく、戦時下の厳しい状況の中、キリスト教主義教育の拠りどころでもあった のです。
(SEINAN Spirit No.168 2009年4月5日発行)
英語で通じたグレーヴス先生
生け花にも造詣が深かったグレーヴス先生
(Alma O.Graves 1907-2000)
カレッジソング”Ah,Seinan!”の作詞者で知られているアルマ・グレーヴス先生は、学院の歴史のなかでもひときわ西南学院に影響を与えた人物でしょう。
1938年に西南学院高等学部(大学の前進)の英語・英文学の教授として着任され、戦時中は一時帰国。戦後まもなく再来日され、その後、1976年の帰国まで約40年間の長きにわたり学生の教育に尽力されました。
なかでもユニークなのは、日本語は堪能なのに、学内では英語を通されたことです。授業だけでなく勉強・訓練のためと思われたのか、英語で話しかけられたことは、当時の学生の思い出話によく登場します。
また、E.S.S.やグリーンクラブの指導などにもその才能を発揮しましたが、特にE.S.S.の英語劇では発音を徹底して練習させるなど、「語学の西南」に多大な貢献wお果たした名物教授でした。
(SEINAN Spirit No.169 2009年7月10日発行)
ドージャーのドキュメンタリー番組-「愛と剣と」
番組の宣伝で作成されたチラシ
創立者C.K.ドージャーの生涯を描いたテレビドキュメンタリー「愛と剣と」が1986年10月に放映されたことはご存知でしょうか。これは西南 学院創立70周年の特別番組として西南学院が企画し、RKB毎日放送が制作したドキュメンタリー番組。チーフディレクターの木村栄文氏は本学の OB(1959年商卒)で、ドキュメンタリーの分野では数々の受賞暦を持ち、業界では著名なディレクターでした。この番組には、元文部大臣の永井道雄氏、ドージャー先生の長女ヘレン・ピーチさんらが出演し、さらにアメリカではドージャーの母校マーサー大学で のロケも行われました。
その中で、当時、神学部教授だったL.K.シィート先生はドージャー役として出演され、トレードマークのあご鬚もきれいに剃った姿が映っています。
西南学院が間もなく100周年を迎えようとする今日では、貴重な映像資料となっています。
この「愛と剣と」をDVDにして貸し出していますので、ご希望の方は西南コミュニティーセンター1F広報・連携課 (TEL:092-823-3232)までご連絡ください。
(SEINAN Spirit No.170 2009年10月5日発行)
長谷川 町子さんは西新に住んでいた?
4月26日に除幕式が行われ、お披露目されたサザエさんの陶板
漫画「サザエさん」の原作は、1946年から福岡の夕刊フクニチに連載が始まりました。作家の長谷川町子さんが当時西新に住み、海辺の散歩中にキャラクターを考えたことから、海に関するものが多いのが特徴です。これを福岡市早良区役所が記念して、発案の地であることを説明した記念碑を西新6丁目の「磯野広場」に設置しました。
この国民的な人気漫画に西南学院が登場していることはご存知でしょうか。「サザエさんうちあけ話」9話に「西南学院」という門扉と中学部長住宅、松原が描かれています。その漫画では、酔って道に迷った進駐軍のアメリカ兵を西南学院の先生宅に連れていったというお話ですが、西南は英語に強いということを意識していたことでしょう。「語学の西南」はこの頃からすでにあったのです。
(SEINAN Spirit No.161 2007年7月5日発行)
ギャロット杯の由来は?
和服を着こなし、尺八も吹いたギャロット先生
E.S.S.が主催するギャロット杯争奪英語弁論大会は、大学としての歩みをはじめた翌年の1950年にスタートし、今年で58回を迎えます。英語弁論大会で全国的に著名なその名称は当時初代学長を務めたウィリアム・マックスフィールド・ギャロット先生に由来していたのです。
1934年にアメリカ南部バプテストから宣教師として日本に派遣されたギャロット先生は、旧制西南学院高等学部教授に就任。1941年、開戦後も日本に留まり、東京の進学校に奉仕していましたが、情勢が悪化し敵国人収容所に収容。やむなく強制送還させられ帰国しましたが、西南や日本を愛してやまない人でした。
1947年、戦後間もなく日本に戻ってきた先生は、西南学院の院長(第5代、第11代)、学長(初代)、理事長(第10代)、宗教局長など要職を歴任しました。日本語が堪能で日本通の先生が大学の黎明期に果たした役割は大きかったのです。
(SEINAN Spirit No.162 2007年10月5日発行)
西南学院のルーツ ~福岡バプテスト神学校~
西南学院創立には旧福岡バプテスト神学校の校舎を使っていた。
宣教師C.K.ドージャー(charles Keisey Dozier)が来日して最初にかかわった学校は、福岡バプテスト神学校。福岡市大名町96番地の宣教師館を校舎として今から100年前、1907年10月17日に開校式が行われました。在日宣教団の理事でもあったドージャーは、授業を担当しながら、日本人クリスチャン指導者の必要なことをアメリカのミッションボードに訴えたのです。「まだ神様の言葉を知らない日本の若者たちに伝えたい」というドージャーの熱い思いが、西南学院の源流となりました。その後、1911年、ドージャーが校長になった福岡バプテスト夜学校に繋がり、「中学西南学院」へと大きな河となっていきました。
(SEINAN Spirit No.163 2007年12月5日発行)
学院に新聞社の工場
新聞社の予備工場を予定されていた第2校舎
戦火が激しくなった1944(昭和19)年、新聞社が被災した場合の予備工場が西南学院構内に設けられていたことをご存知でしょうか。昭和19年3月18日の理事会の記録には「高等学部ハ来年度ヨリ定員半減ニ付餘剰教室ヲ朝日新聞西部本社及毎日新聞社工場トシテ校舎ノ一部ヲ貸與特用ニ関スル件」が、全会一致で可決したことが記されています。ちなみに社史「朝日新聞の九十年」によれば、毎日と朝日が共同で活版、印刷関係部門を置いたのですが、「本土空襲激化により福岡も危険になったため、熊本に第三工場を設置した」と記載されています。工場は、第2校舎全部、第4校舎の1部、合計143坪の広さでしたが、幸い1回も使用することなく終戦を迎えました。
(SEINAN Spirit No.164 2008年4月5日発行)
福大の創立者は西南OB?
在学中、ドージャー院長からバプテスマを受けた溝口氏
溝口梅太郎氏は、市立福岡商業学校卒業後、保険会社を経て日本硝子株式会社を興しましたが、当時の財界不況の中、26歳の若さで失敗。その後、心機一転しようと1921年に本学の前身である高等学部商科に入学しました。
学生時代は、硬式野球部の捕手として活躍し、卒業後は、母校で保険学、商業学などの教鞭を執りました。その傍ら、九大の聴講生として勉学に励み、「福岡に商業の専門学校を設立することが、天の時と地の利とをあわせえたものである」として、福岡高等商業学校設立の計画を発表しました。1934年に創立された同校は次第に規模が大きくなり、福岡大学として発展したのです。その後、溝口氏は同校の第2代理事長、学校法人福岡大学理事長などを歴任し、同校の発展に尽力されました。今では、よきライバルとして切磋琢磨している両大学には、深い縁があったのです。
(SEINAN Spirit No.165 2008年7月5日発行)
西南学院大学の創立はいつ?
正門から見た高等学部(現学院本館付近)
中学校でスタートした学院は、今年、創立90周年を迎えます。大学は、1999年に開学50周年を祝いましたが、これは国の新学制施行による1949年の大学(学芸学部)解説を起点にしています。多くの私立大学がこの頃、新学制による大学の開設を行っています。では、大学の創立は?
前身は1921年の高等学部(文科、商科)開設に遡ります。今年、大学は創立85周年を迎えることになります。
(SEINAN Spirit No.156 2006年4月15日発行)
ランキン・チャペルの名称の由来は?

ランキン・チャペルは、1954年、米国南部バプテストの信徒たちの全額援助によって建てられました。建設にいたるまで物心両面から尽力した米国南部バプテスト連盟東洋総主事M・T・ランキン博士(1894-1953)の功績をたたえて名付けられたこのチャペルは、当時は市内有数のホールとして、市民の様々なイベントにも使用されてきました。このチャペルも老朽化が進んだため、この夏に建て替えられ52年の歴史に幕を下ろします。
(SEINAN Spirit No.157 2006年7月5日発行)
初めての女子学生はいつ入学?
新制大学英文学専攻第1回卒業生(1652年3月)
創立当初は「男子の中学校」として開設された西南学院も女子学生が過半数を占めるようになってきました。正式な女子学生はいつ入学したのでしょうか。実は1934年高等学部神学科の選科生として卒業生名簿に女子学生1名がはじめて登場しており、卒業後は、長崎の五島冨江バプテスト協会で奉職しています。その当時、神学部も「地行濱」にあったので西新キャンパスの話題にはならなかったのでしょうか。ちなみに新制大学の最初の卒業生は、1952年の104人のうち女子学生は4人。その後進学率の上昇と共に増え続け、入学した学生の男女比が逆転したのが1995年でした。
(SEINAN Spirit No.158 2006年10月5日発行)
ランキン・チャペルに注がれた熱い祈り

現在、ランキン・チャペルの取り壊し工事が進んでいますが、9月29日の工事で定礎の部分を取り外すとその奥に聖書や資料が埋められていることが分かりました。その内容は①旧新約聖書(「西南學院大學講堂新築内外バプテストの祈りと献金に支えられて 紀元一九五四年七月」の端書あり)、②役員及び教職員組織一覧表(昭和23年5月25日現在)、③講堂新築工事設計者・施工者一覧、④見取り図 No.2~No.6、⑤創立35周年記念パンフレット(1951(昭和26)年7月7日発行)でした。52年前のことが偲ばれるものですが、聖書の端書は残念ながら誰の筆跡か不明です。
(SEINAN Spirit No.159 2006年12月5日発行)
幻の西南学院バプテスト大学
西南学院バプテスト大学鳥瞰図
2001年まで干隈地区にあったキャンパスは、すでに福岡市に譲渡されていますが、1937年、そこには中学部、高等学部に続き大学を立てる計画が持ち上がったのをご存知でしょうか。それは神学部を中心とした「西南学院バプテスト大学」構想で、当時、西南学院講堂(現博物館)などを手がけたヴォーリズ設計事務所が校舎鳥瞰図を作成。水と緑豊かな地にアーリーアメリカンスタイルの校舎を配した美しいキャンパスとなっています。
しかし、この計画も戦争の影響による国際関係の悪化にともない、敷地だけの取得にとどまり実現にはいたりませんでした。西南学院バプテスト大学がたんじょうしていたら、どんな大学になっていたのでしょうか。
(SEINAN Spirit No.160 2007年4月1日発行)








