学校法人西南学院
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2016年 創立100周年

西南学院史資料センター

メモリアルコラム

西南学院の歴史にまつわる話や逸話を大学広報誌『SEINAN Spirit』(季刊)で取り上げた「西南メモリアル・コラム」を掲載しています。

新旧3号館

No.51

▲2013年に取り壊された旧3号館

 旧図書館は、2018年9月から「3号館」として生まれ変わりました。
 旧3号館は、1964年4月に2号館と同時に竣工しました。旧3号館は当初4階建てで、1号館(1952年竣工)だけでは不足していた大・中・小の教室をはじめ、LL(語学ラボラトリー)教室、体育会と学術文化会の総務委員会室や課外活動部室などが設けられました。それでも学生数増に対応できず、1968年1月には5階建てに改築し、ゼミ教室12室を増設しました。
 1964年と言えば、東京オリンピックが開かれた年で、オリンピック景気による高度経済成長のさなかにありました。本学でも、4月に経済学部を設置し、翌年、文学部に外国語学科を設置。また1967年には法学部を設置するなど、学生数の増加とともに大きな発展が見られた時期でした。
 その後、施設面でも4号館(1967年)、5号館(1971年)、6号館・自然科学館(1974年)などを増築し、大学は着実な成長を遂げました。しかしながら、限られた敷地のため、既存の建物を取り壊して新しく建築するスクラップアンドビルド方式によるほかはなく、新2号館(1987年)、新1号館(2001年)に建て替わりました。旧3号館も竣工以来48年が経ち、老朽化のため2013年3月に取り壊して現在は臨時の駐輪場になっています。
 今回、旧図書館は、積層書庫・SAINSルームなどを取り壊し、既存の諸室の改修改装工事を行なって、あらためて「3号館」と呼称することになりました。新しい3号館の1階には、国際センター事務室と海外に興味を持つ学生と留学生との交流を図ることも含め学生のために「GLOBAL STUDENT LOUNGE」を設け、2階には入試課、3階と4階にはマルチメディア教室の11室を設置しました。この「3号館」は、2018年9月の後期授業開始日から運用を開始しています。

(SEINAN Spirit No.206  2018年 9月21日発行)

西南学院コミュニティークリスマスの今昔

No.52

▲ランキン・チャペルで開催された第1回西南学院市民クリスマス

 創立以来100年を超える歴史を持つ西南学院は、キリスト教を建学の基盤とし、神の愛と導きの中で育まれ、教育と研究に努めてきました。学院は、毎年、クリスマスシーズンになると、学生、生徒、児童、園児、教職員を対象にいろいろな形でクリスマスをお祝いしています。また、1993年から、地域社会や市民の皆さんに、クリスマスの本質や意義を理解してもらい、イエス・キリストの降誕をともに祝ってもらおうと、「西南学院市民クリスマス」を催しています。
 第1回の西南学院市民クリスマスは、大学の旧チャペル(ランキン・チャペル)を会場に約800人が参加して行われました。中村和夫宗教局長のクリスマス・メッセージを中心に、パイプオルガンや大学のハンドベルクワイア、チャペルクワイア、グリークラブなどによる賛美で、ともにイエス・キリストの降誕を祝福しました。
 2002年から名称を現在の「西南学院コミュニティークリスマス」と変え、会場もランキン・チャペルから高校の赤レンガ講堂(現・大学博物館)に変更しました。2003年に中学校・高等学校は百道浜キャンパスに移転したため、赤レンガ講堂での最初で最後のコミュニティークリスマスとなりました。翌年からは、百道浜キャンパスに新しく完成した中学校・高等学校のチャペルで行われています。
 毎年、約500人がこのプログラムに参加していますが、会場が大学から中学校・高等学校に移ったことから、プログラムも聖書朗読と祈祷を中学校や高等学校の生徒が行い、賛美演奏も中学校・高等学校の吹奏楽部が行うなど、少しずつ様変わりしています。
 西南学院につながる私たちは、クリスマスが持つ本来の意味を忘れず、イエス・キリストの降誕をお祝いしましょう。

(SEINAN Spirit No.207  2018年 11月26日発行)

西南学院の校章

No.53

▲ドージャーが考案した校章 ▲「三葉の松葉」の校章。戦時中の金属類回収令で陶器製に変わった

 これまで西南学院の校章は、誰がいつ発案したのか、明確な根拠はありませんでしたが、『西南学院百年史』の編纂を進める中で、校章に関する英文資料が発見されました。それは、1931年に書かれた西南学院創立15周年記念式典でのC.K.ドージャーの挨拶原稿で、「私は、学校の校章となるモノグラム(組み合わせ文字)のひな形を描きました。」という短い内容の英文資料でした。校章については、わずか数行の証言でしたが、考案者を明確にする貴重な資料となっています。
 ドージャーが考案した校章は、サウス・ウェスターン・アカデミー(Southwestern Academy)の頭文字「S・W・A」のモノグラムでした。しかし、戦争中は、ナショナリズムの高揚により、英語は敵性語とされ、「S・W・A」の校章は適当ではないという声が強くなってきました。そこで、学院は、校章の新しい案を募集したところ、大村匡高等学部商科長の考案で、「信・望・愛」を象徴した「三葉の松葉」によるデザインが採用されることになりました。新しい校章は、高等学部や中学部、商業学校で、それぞれ「高」、「中」、「商」の文字を配置して、1943年から使用されました。
 戦後、中学校はこれを引き続き使用しましたが、高等学校、専門学校では、旧校章にもどし、「SW」の上にそれぞれ「H」または「C」を重ねて使用することになりました。また、今から70年前の1949年に大学が開設されると、その上に「大學」を配置して使用しており、野球の西福戦などで活躍する応援団の団旗にも用いられています。
 学院は、創立100周年の記念事業を行うにあたり、2010年に「SW」のデザインと各学校名のロゴマニュアルを作成し、学院本部、各学校・園の式典・行事等公式の場で使用するほか、名刺や広報物、グッズなどにもマニュアルに沿ったデザインで統一することにしました。

(SEINAN Spirit No.208  2019年 3月11日発行)

「知のシンボル」ー新図書館

No.46

▲第1期
▲第2期
▲第2期増築部分

 2017年4月に大学新図書館がオープンしました。大学図書館の歴史は大きく3期に分けられますが、その歩みを簡単に振り返ってみましょう。
 第1期の大学図書館は、開学して5年目の1954年10月、学術研究所の西側に西日本最初の開架式図書館として建設されました(3階建て、収蔵能力10万冊、座席数210席、総面積1,285m2)。当初、学院図書館として中学生や高校生も利用していましたが、1960年4月1日に大学の図書館となりました。
 続いて第2期として、中央キャンパスの東側に積層書庫を備えた図書館が1968年9月20日に竣工しました(最終工事1975年、5階建て、積層書庫は7層、収蔵能力60万冊、座席数450席、総面積約4,438m2)。当時の図書館の受付カウンターは、2階にあって、1階は自由に入退室が可能な学習室がありました。また、全国で8館目となる国連寄託図書館も館内に設置され、1977年10月からは夜9時まで利用可能となる夜間開館が実施されました。
 その後、図書や資料が増加し、狭隘化したため増築工事を行い、収容能力がほぼ倍増した図書館が1992年7月に竣工しました(5階建て、収蔵能力120万冊、座席数761席、旧館部分を含めて総面積約10,644m2)。それまで目録カードで検索していた図書もパソコンで検索可能となり、OPACでの検索システムをはじめ、入退館、貸出、返却などの図書館業務がシステム化され、パソコン時代に対応してSAINSルームも設けられました。
 そして2017年4月、第3期として、旧図書館東側、旧本館の跡地に新図書館がオープンしました(7階建て、収蔵能力約180万冊(うち自動書庫約80万冊)、座席数約1,170席、総面積約11,716m2)。「知のシンボル」として学術・文化の拠点を目指した新図書館は、「考える学生を創造する場」というコンセプトを基にアクティブ・ラーニング機能を備えたラーニング・コモンズの設置により新しい学びの空間を提供しています。
(SEINAN Spirit No.201  2017年 6月23日発行)

M.B.ドージャーがまとめた「SEINAN GAKUIN」

No.47

▲晩年のM.B.ドージャー
▲「SEINAN GAKUIN」

 「SEINAN GAKUIN」は、モード・バーク・ドージャー(Maude Burke Dozier 1881-1972、以下「モード」)が、晩年にまとめた西南学院史ともいうべき資料です。夫C.K.ドージャーがミッション・ボードに書き送った報告書や書簡、彼の日記などをもとに、ドージャー夫妻が来日した1906年から、夫ドージャーが院長を辞任して休暇帰米する1929年までの西南学院の歴史が克明に記されています。A4判80数ページに及ぶ英文のタイプ打ちの原稿で、モードによる書き込みも多く、完成原稿ではないと思われます。
 作成年月は記されておらず、定かではありません。「西南同窓会報」(1962.7.31発行)によると、「(ドージャー夫人は)ドージャー氏の西南学院創立及び経営について貴重な資料の編集を完了。八月中にそれをプリントにされる由」とあり、1962年8月頃に作成されたと推測できます。その後、製本・刊行されたという記録はありません。
 また、同会報には当時のモードの近況について「現在、八十才のお年で、なお非常にお元気で、長男エドウィン氏の家族と共に、福岡市郊外干隈の地に余生を過ごしておられる」とあります。なお、モードは、その2年後の1964年に老齢のため帰米しました。
(SEINAN Spirit No.202  2017年 9月25日発行)

もう一つの遺訓「ビッグスクールたらずして、グッドスクールたれ」

No.48

▲『西南学院新聞』第65号(1947.9.15)

 資料センターには、高等学部名誉教授の波多野培根が、1941年5月13日の西南学院創立25周年記念祝賀晩餐会で「建学の精神及び過去二十五年の回顧」と題した講話のメモ書きが保存されています。その中に、波多野が就任時(1920年9月)にC.K.ドージャー院長が “It is our purpose to make a good school, not a big one” と語ったという記録があります。講話の内容は不明ですが、ドージャーが新任の波多野に「学校の規模を大きくするのではなく、小さくても善き学校にしたい」との理想を語ったことが、深く波多野の心に残り、講話の柱にしたと思われます。
 また、西南学院名誉校長の杉本勝次(第7代理事長、後の福岡県知事)も「故シーケードージアー(原文ママ)先生も、Big school ではなくGood school たらしめねばならぬと常に語られたことであったが、この精神は変えてはならぬと思ふ」(『西南学院新聞』1947年9月15日)と語っています。杉本も「常に語られた」この言葉を遺訓のように捉えていたのかもしれません。
 生徒104人で始まった西南学院も、今では学生・生徒・児童・園児を合わせると1万人を超えますが、決して規模の大きな学校を目指したのではなく、善き学校、善き教育を目指した結果が、地域や社会に受け入れられて現在の西南学院につながっているのです。
 昨年の創立100周年記念式典で、バークレー院長は、「創立以来、揺らぐことなく『キリストに忠実なれ』という建学の精神を基に、創立者ドージャー先生が目指した“Good School”を創り上げる目標は今後も変わりません」と次の100年に向けて力強く語りました。
(SEINAN Spirit No.203  2017年 11月27日発行)

英字新聞『Seinan News』

No.49

▲英字新聞『Seinan News』
    (1935年6月25日発行)

 世界情勢が不安定になりつつあった1935年、米国南部バプテスト連盟の支援で開設された西南学院と西南女学院の実情を米国に知ってもらうため英字新聞『Seinan News』が発行されました。この新聞は、全4ページ、ブランケット判で、発行部数は1,300部。水町義夫院長・原松太西南女学院院長がチーフ・エディターを務め、小野兵衛教授が発行人となり、6月25日付の発行で神戸の中外出版社に印刷を依頼しました。
 1面には、米国の南部バプテストの人々に呼びかける水町院長の親愛のメッセージや西南学院と西南女学院の学生生徒1,367人で今年度の学びが始まったことなどが綴られています。2面には、ドージャー夫人のモードが1916年から1935年までの西南学院の歩みを執筆しています。また、3面は、中学部のチャペルを守っている生徒の様子を大きな写真で紹介し、高等学部や西南女学院、西南学院バプテスト教会などの現状も報告しています。最終面は、10枚の写真で学校の姿やミッションボードのマドレー総主事と南部バプテスト神学校ウエザースプーン教授が来学した様子などを伝えています。
 英字新聞発行の目的は、米国の各学校・教会などに送り、バプテスト教会の支援によって西南学院と西南女学院が着実な歩みを続けていることや、日本における地位の重要さを深く認識してもらうことにありました。その背景には、米国からの支援が途絶えることを危惧し、友好関係を存続したいという切実な願いがあったのではないかと考えられます。
 英字新聞は、マドレー一行の再来日に間に合うように作成し、約1,000部を一行に依頼して米国へ託送してもらいました。米国に送るため、紙も上質のものが使用されるなど仕上がりもよく、学生には実費5銭で販売されました。多くの人から賞讃された英字新聞は、年3回発行する予定でしたが、国際情勢の悪化にともない、同年11月に第2号を発行しただけで中止になったことは止むを得ないとは言え、残念なことでした。

(SEINAN Spirit No.204  2018年 3月12日発行)

姉妹校宣言の16ミリフィルム

No.50

▲姉妹校宣言でインタビューを受けるマコール総長(前列左から船越学長、マコール総長、後列左からウッド教授、大内教授、レイノルズ副総長)

 本学は、今から47年前、米国ベイラー大学と姉妹校宣言文の交換を行い、本格的な国際交流のプログラムを開始しました。
 1971年7月に船越栄一学長が渡米し、同じ時期に米国に出張中の大内和臣教授が同行して、ベイラー大学を訪問しました。同じキリスト教南部バプテスト派の大学という関係もあって、同大学のあるテキサス州ウェイコの町では、船越学長らを市長や町の要人たちが多数で出迎えるなど、心温まる歓迎を受けました。
 学長が渡米して交わした姉妹校宣言文の調印式には、ベイラー大学から、A.V.マコール総長、H.H.レイノルズ副総長、J.E.ウッド教授(国際交流委員長)が出席して、7月12日に同大学の総長室で行われました。船越学長は、その日の記念としてマコール総長とお互いの万年筆を交換した思い出を当時の大学広報紙に執筆しています。
 2016年に資料センターが百年館に開設する際、未整理の段ボールから「姉妹校ベイラー大学調印式(於ベイラー大)」と書かれた16ミリフィルムが発見されました。このフィルムは、収録時間は1分53秒の短いフィルムですが、現地のマスコミがマコール総長にインタビューを行っている様子が撮影されており、貴重な資料であることが分かりました。
 そのインタビューでマコール総長は、「両大学間で、学生の交換と、教員の交換をすることを主たる目的としています。西南学院大学から来る学生は、最初は英語やアメリカ文化を学ぶことになるでしょうが、ベイラー大学が提供しているさまざまな分野の学問を学ぶことができます。この交換は、西洋と東洋が出会う機会を生み出すことになり、とても意義深い関係性を築くことができるでしょう」と語っています。
 これまでのベイラー大学との交換は、本学から派遣した学生137人、教員16人、同大から受入れた学生137人、教員14人となり、300人を超える学生・教員が互いの文化を越えて学び、授業を担当し、交流しました(2018年5月現在)。この姉妹校宣言をスタートとして、今では、国際交流協定校も欧米やアジア地域を含め、27か国92大学と交流の輪が広がっています。

(SEINAN Spirit No.205  2018年 6月22日発行)

ギャロット杯優勝カップ

No.41

▲歴史が感じられるギャロット杯の優勝カップ

 本学で長い歴史を持つクラブの1つが、1923年に創部したEnglish Speaking Society(以下、「E.S.S.」)です。E.S.S.は、英語や英会話をはじめキリスト教を含む西洋文化を学ぶために英 語による劇、弁論大会や討論会などを行ってきました。
 その活動の中で、1949年、当時の顧問A.グレーヴス先生の提案によって県内高校生を対象に英語暗唱大会(初代学長W.M.ギャロット先生の名を冠しました)として、E.S.S.主催のギャロット杯争奪英語弁論大会を始めました。しかし、当時、大学生のための英語暗唱大会が少なかったことから、対象を高校生から大学生へ変更し、翌年から第1回と数えなおして開催しました。半世紀を超える長い歴史を持つ学生主催のコンテストとして、全国の大学生がアカデミックでハイレベルなスピーチを繰り広げ、2015年度で66回を数えています。ちなみに1950年の第1回大会の優勝は、元西南学院高等学校英語科教員の豊田佳日子先生(1953年文商学部英文学科卒)でした。
 写真のギャロット杯優勝カップはE.S.S.から寄贈していただきました。直径18.5㎝、高さ43.5㎝で、片方の取っ手が外れており、歴史の重みが感じられるカップで、修理の跡が数か所見られます。いつ頃まで使用されたのかは不明ですが、現在は新しい優勝カップが授与されています。
 本学が「語学の西南」と評価されるようになったのは、外国人宣教師が数多く教鞭をとり、外国語教育に熱心であったことにもよりますが、その一端を担ってきたE.S.S.の活動も大きいと言えるのではないでしょうか。
(SEINAN Spirit No.196  2016年 3月14日発行)

60年に及ぶ湯平小学校との交流に幕 ―吹奏楽団春の合宿―

No.42

▲湯平小学校18人の子どもたちとともに最後の記念撮影(2016年2月20日)

 2016年2月21日、113年の歴史を持つ大分県由布市湯布院町の湯平小学校が、児童数減少の影響を受けて閉校が決まり、その記念式典が行われました。実は同校と本学の応援指導部吹奏楽団には、約60年に及ぶ歴史がありました。
 応援指導部吹奏楽団OB・OG会前会長の占野義弘さん(商学部1960年卒)の話によると、湯平で合宿を行ったのは1958年の春休みに、応援団の合宿に倣って始めたのが最初ということです。そして練習の合間に地元青年団や子どもたちとふれあう中で、お世話になった地元の皆さんへの返礼の意味を込めて演奏し、子どもたちは立て笛を披露するなど、これまで交流を深めてきました。1977年からは、正式に湯平小学校の訪問演奏が始まり、吹奏楽団の部員たちにとって年代を超えた共通の思い出を語れる数少ないイベントでしたが、同校の閉校が決まったため、今年で最後になってしまいました。
 衛藤修一教頭は、「毎年この時期になると西南の学生さんが湯平に来て、演奏してくれるのを子どもたちだけでなく、地域の人たちも楽しみにしていました。生の演奏を聴く機会が少ないので本当に感謝しています。演奏だけでなく、子どもたちと給食を一緒に食べて、昼休みに遊んだりしてくれて、年中行事の一つとなっていました」と同団とのつながりの深さを語ってくれました。
 閉校記念式典前日の2月20日、小学校では、これまで演奏してくれた感謝の気持ちを表わしたいと、同校の体育館にステージを準備してくれました。主将の松本茜さん(法学部3年)は、「私たちも湯平小学校での演奏は楽しみにしていたので閉校はとても残念です。先輩方が築いてこられた60年の伝統を思い、感謝を込めて一生懸命演奏しました」と最後になったステージを振り返っていました。
 このような温かなふれあいが、西南学院の100年の歴史には数多くあると思われます。湯平小学校はなくなっても湯平の地域と吹奏楽団の絆はこれからも続いていくことでしょう。
(SEINAN Spirit No.197  2016年 6月24日発行)

C.K.ドージャーの日記(1928年)

No.43

▲「C.K.ドージャー日記」
(西南学院史資料センター所蔵)

 西南学院には、創立者C.K.ドージャーが1928年に書いた日記が保管されています。他の日記は、米国のSBHLA(Southern Baptist Historical Library and Archives)に保管されています。創立から12年経ったこの年は、学院として充実した時期でしたが、一方でキリスト教の習慣がない学生たちは、日曜礼拝のための公式クラブ活動禁止に疑問を持つなど、活動の「自由」を学院に求めた時期でもありました。
 1928年のドージャーの日記は、日々の出来事が淡々と描かれています。多くの日記は「午前6時頃に起床。髭を剃り、着替え、祈り、朝食をとった。」と始まり、決まった日課があったことがわかります。毎日、西南学院についての具体的な記述があり、学院に関係しない日はありません。ドージャーがいかに西南学院に心を傾けていたかがわかります。
 日記の最後には、「(1928年は)相対的に良い年であったが、学生たちが全てにおいて自由を求めたことは高等学部の悩みの種であった。〈中略〉職員は皆残ってくれて、たくさんの恵みに感謝している。〈中略〉私たちには感謝すべきことがすべて揃っている」と1年間を振り返っています。
(SEINAN Spirit No.198  2016年 9月23日発行)

C.K.ドージャーが使用した机

No.44

▲「C.K.ドージャーが使用した机」(通常、大学博物館「ドージャー記念室」にて展示されています。)

 西南学院には、創立者C.K.ドージャーが使用した机が残されています。1925年頃から使用され、ドージャーが院長を辞任し、北九州に移った際にもこの机を持っていきました。ドージャーの死後、再び西南学院に戻ってきたと伝えられています。
 幅150cm、高さ70cm、奥行き92cm程の大きな机で、素材は主にけやき、内部は杉が使用されています。天板には「BUILT FOR AND USED BY C.K.DOZIER」(C.K.ドージャーのために作られ、使用された)と真鍮の銘板がつけられています。長崎で製作され、机の両脇側部には、観音片開きの扉があり、そこにも収納できるのが特徴です。右側引き出し最下部に修理した跡がみられ、1969年の学生運動の際に破損したと考えられます。
 ドージャーが様々な思いで執務に当たった机は、学院において現在まで大切に保管されてきました。現在、この机は西南学院史資料センターの開設記念展「3人のドージャーからのメッセージ」で展示されています。開設記念展は学院創立や女子・幼児教育、戦後の学院復興に尽力した3人のドージャーたちの思いを伝える展示となっています。
(SEINAN Spirit No.199  2016年11月24日発行)

建学の精神「西南よ、キリストに忠実なれ」

No.45

▲「チャールズ・マッドレイに宛てたモードの手紙」 (南部バプテスト外国伝道局所蔵)

 西南学院の建学の精神は「西南よ、キリストに忠実なれ」です。これは、創立者C.K.ドージャーが、亡くなる前に遺した言葉です。1933年、ドージャーは、狭心症を患いながらも西南学院と西南女学院の理事や教会の職務に尽力していました。同年5月25日に病状が悪化し、妻モードや息子エドウィンらが看病に当たりましたが、31日に天に召されました。
 6月5日モードは、ドージャーの死について、宣教師を派遣する米国南部バプテスト連盟の外国伝道局総主事チャールズ・マッドレイに次のような書簡を送りました。
 この何週間の間、ドージャーは繰り返し言っていました。「私の生涯は完全ではないが厚い信仰は持っていました。」「私は主の愛によって救われる罪人にすぎません。」ドージャーが自分の命よりも愛した西南学院に最後に言い遺した言葉は、「西南よ、キリストに忠実なれ」でした。 (マッドレイ宛書簡、1933 年 6 月 5 日 抜粋)  ドージャーが遺した、'Tell Seinan Gakuin, be true to Christ.'は、西南学院の建学の精神として、現在も大切に受け継がれています。
(SEINAN Spirit No.200  2017年3月13日発行)

キャンパスにある松脂採取の痕

No.36

▲貴重な証言と思い出を語る松井さんと松脂を採取したと思われる痕が残るキャンパスの松。

 西新キャンパスには、かつて福岡藩主黒田長政の命により松を植え、防風林として成長した百道の松原の名残りがありますが、その松の幹には、太平洋戦争末期にガソリンに替わる燃料として松脂(まつやに)を採るためと思われる傷痕が今も残っています。松根油(しょうこんゆ)と呼ばれたその油は、幹に傷をつけて松脂を採り、それを蒸留・分離する方法と根を掘り起こして蒸し焼きにし、揮発成分を冷却して液化する方法がありました。そうして精製した油を代替燃料として利用していました。
 「旧制中学1年生のころ、城南区の友泉亭の丘に松の根っこ掘りに行き、級友と汗を流したことを憶えています。当時、食糧難だったので腹をすかせた少年の力ではぴくりとも動かずお手上げでした。西南学院高校を卒業して64年になりますが、改めて見ると大学のキャンパスの松にも松脂を採ったような傷痕があり、間違いないと思いました」と松井靖之さん(西南学院高等学校、1950年卒業)は思い出を語ってくださいました。
 戦争末期の1944(昭和19)年ごろ、戦闘機や軍艦の燃料が底を尽きかけていたときに代替燃料として松根油が考え出され、お年寄りから子どもまで松脂採りと松の根掘りに駆り出されました。その当時の政府は、「全村を あげて松根 赤だすき」という標語のもとにポスターを作成し、「松根油緊急増産運動」を全国的に推進していました。しかし、松根油は航空機ガソリンの原料としての利用が試みられましたが、精製する労力に対し効率も悪いため実用化には至りませんでした。戦後残された松根油は、漁船などの燃料として活用されたということです。
 今はサークルの立て看板で賑わいを見せているキャンパスには、戦争の記憶として松脂採取と思われる傷痕が残った松が静かに見守っているのです。
(SEINAN Spirit No.191  2014年 11月25日発行)

ボールデン夫人愛用のライティングビューロー

No.37

▲猫脚がおしゃれな
ライティングビューロー

 本学卒業生の岡久凱さん(おか・ひさかつ:1963年商学部商学科卒業)からご寄贈の申し入れがあり、有り難くお受けいたしました。それは、およそ90年前、第3代西南学院院長G.W.ボールデンの妻、マギー(Maggie Lee Bouldin)が使用していたライティングビューロー(引き出し付きの事務机)でした。
 ボールデン夫妻は、1906年、西南学院創立者C.K.ドージャーや西南女学院創立者J.H.ロウらの夫妻とともに、イエス・キリストの福音を伝えるため、アメリカから日本にやってきた南部バプテスト派の宣教師でした。長崎に到着したボールデン夫妻は福岡、東京と移って北九州の小倉に落ち着き、伝道に従事することになりました。その後、1925年にボールデン夫人は西南女学院の第2代院長に就任し、1927年に第1回の卒業生を送り出したあと病気による帰米のため、その年の3月に辞任したのです。翌年、再び来日し、夫ボールデンは西南学院(後の第3代院長)に、夫人は舞鶴幼稚園(後の第6代園長)に就任することになりました。
 西南女学院の第1回卒業生である岡さんの母親の富子さん(旧姓・岡部)は、当時院長だったボールデン夫人とも親しく、福岡で夫人の秘書的な仕事をすることになりました。しかし、間もなく夫ボールデンは、いわゆる「日曜日問題」の影響で、1932年に西南学院を辞任して静岡県の御殿場に移ることになったのです。このライティングビューローは、ボールデン夫人が愛用していたもので、福岡を離れる際、親しかった富子さんが譲り受けたものでした。
 幅67cm、奥行き38cm、高さ138cmのライティングビューローは、この種としては小ぶりなものですが、落ち着いた色が美しく、ヨーロッパ調の猫脚がおしゃれな一品です。また、シンプルなビューローには、テーブルを開くと小さな引き出しと書棚が付いていて、機能的な造りになっています。
 この使い込まれたライティングビューローは、ボールデン夫人に対する富子さんの思いを受け継ぎ、岡さんにより大切に扱われてきたので、学院でも貴重な資料として保管したいと思います。
(SEINAN Spirit No.192  2015年 3月16日発行)

西南の森

No.38

▲西南学院関係者が雨の中行った墓参
(2015年5月30日)

 北九州市小倉北区、西南女学院中学校・高等学校の敷地内に「西南の森」という墓所があります。生きいきとした生徒に囲まれた緑豊かなこの場所には、西南学院や西南女学院の創立者、宣教師たちなど、学院にゆかりある人物が静かに眠っています。西南学院創立者C.K.ドージャー(Charles Kelsey Dozier, 1879-1933)と妻M.Bドージャー(Maude Burke Dozier, 1881-1972)らのお墓もここにあり、誰でも訪れることができます。ドージャー夫妻の他に、息子で宣教師のエドウィン・ドージャー、西南女学院創立者ロウ、西南学院大学初代学長ギャロットなど、14名のキリスト者たちのお墓があり、墓石にはそれぞれの信仰を示すような聖書の箇所が刻まれています。
 C.K.ドージャーが亡くなった1933年以来、―アジア・太平洋戦争が激しかった間をのぞき―現在まで、毎年5月に学院関係者は、創立者たちを記念して墓参を行っています。C.K.ドージャーの墓石には遺訓である建学の精神とともに、次のヨハネ福音書の聖句が刻まれています。
 イエス言ひ給う
 「我は復活なり生命なり 我を信する者は死ぬとも生きん」

(ヨハネ11:25)
(SEINAN Spirit No.193  2015年 6月25日発行)

西南学院大学の硬式野球部

No.39

▲1927年頃 硬式野球部とドージャー院長

 2015年5月25日、西南学院大学硬式野球部は、九州六大学野球春季リーグ戦において55年ぶりに優勝し、57年ぶりに 全国大会へ出場するという喜ばしい知らせを学院に与えてくれました。
 硬式野球部は1921(大正10)年の高等学部(大学の前身)開設の年から西南学院の歴史に登場します。この年、彼らにとって初試合といわれる九州歯科医学専門学校(現、九州歯科大学)との試合が行われました。結成されたばかりのクラブであったため、ユニフォームはおろか、野球道具や選手自身も不足しており、中学部から道具を借り、臨時の選手を集め、試合に臨みました。彼らへの応援は、旗を立て石油缶を叩き、熱烈なものであったそうで、この試合に見事勝利しました。これが、94年前のことです。
 九州六大学リーグ戦は、1957(昭和32)年から開始されました。本学の野球部はこの年の秋季リーグ戦において初優勝し、1959(昭和34)年秋季リーグから60年まで、3季連続優勝という快挙を果たしました。
 また、野球部からは門田富昭氏(78期)、蓬莱昭彦氏(80期)がプロ野球選手として活躍しました。西南学院が創立100周年を迎える折、今回のような硬式野球部の優勝がひとつの契機となり、各クラブが更なる躍進をとげ、活躍することを期待します。
(SEINAN Spirit No.194  2015年 9月24日発行)

スクールカラー、テレベルト・グリーンの由来は?

No.40

▲『西南学院新聞』第4号「カレッヂ・カラー」1934年5月23日発行

 西南学院のスクールカラーは、テレベルト・グリーンです。テレベルトはフランス語でterre verteと表記され、terreは「大地、地球」といった意味の女性名詞で、vertは「緑の、若々しい」といった意味の形容詞です。terre verteは「緑の大地」という意味となります。
 1934年5月23日発行の「西南学院新聞」において、テレベルト・グリーンが学校のシンボルカラーとして採用された経緯が記されています。スクールカラーを募集したところ、多くの案が寄せられましたが、校歌の「松の緑・青春の色」という言葉から着想を得たのでしょうか、緑色系統の応募が多かったそうです。同新聞記事には、「グリーンと言つても、それこそ千差萬別で、(中略)凡そ綠という綠が、ワンサと集って來た。濃いの、淡いの、明るいの、と然し、一と際、審査員の目を惹いたのが、落ち着いた中に、萌え出づる潑溂さを臓したモダンなテレベルト・グリーンであった。そのブラックとブリューのなんとも云へぬニュアンス。この色なら、訊ねられても即座にスピリット・オブ・セイナンだ、と答へられるだらう」と記されています。テレベルト・グリーンは審査員全員の賛成を得て、1934年5月3日にスクールカラーとして決定されました。
 当時、商科4年生の栗山義弘氏が提案し、採用されたテレベルト・グリーンには、オレンジ色が配合されています。緑色は「自由」を示し、オレンジ色には「愛」という意味を込めたと栗山氏は言います。愛が込められた本来の意味の「自由」を、テレベルト・グリーンには象徴されているとも考えられるでしょう。
(SEINAN Spirit No.195  2015年11月25日発行)

中学生が演じたドージャーの劇

No.31

▲当時、国語科で文芸部顧問の村松祐男教諭が編集を担当していた。

 1953(昭和28)年発行の西南学院中学校の文芸誌『愛の学園』には、1949(昭和24)年の6月に上演された中学校文芸部の劇『ドージャー先生とその弟子たち』の台本が掲載されています。
 その内容は、第1幕が寄宿舎での晩餐で、ドージャーがキリスト教の宣教師になるまでの経歴や来日してからの苦労が描かれています。第2幕は、ドージャーがチャペルの時に無駄話をしていた生徒を厳しく叱責したこと、第3幕では叱責されたことに身に覚えのない生徒とその友人が抗議に院長室に出向き、勘違いだったことが分かって素直に謝ったドージャーに感銘を受けたこと、あわせて日曜日に野球の対外試合を許可してほしいとお願いしたことが語られています。第4幕で生徒が傷害事件を起こし、第5幕では、その生徒を涙ながらにいさめ、悲しみの中、全校チャペルで深い祈りを捧げたこと。最終の第6幕は、寄宿舎においてドージャーが西南学院を去るにあたって開いた晩餐会で「この旗(日の丸の旗)の国が大好きです。私はキリストのために、この愛する日本の国で、一生働きつづけます。どうか皆さんもがんばって下さい」というドージャーの台詞で幕が降りるストーリーになっています。
 座長の早川邦彦さん(故人:1950年西南学院中学校卒)は、この演劇の監督も務めながら、ドージャー役に扮し、その人となりを見事に演じました。当時、文芸部員だった石川勝久さん(1951年西南学院中学校卒)は、「講堂(現大学博物館)で全校生徒を集めての文芸部の研究発表会ということで、この劇が行われたと思います。第5幕における感動のクライマックスシーンで、涙を流しながら語ったドージャー先生の“Do you understand?”という台詞はよく覚えていますよ。直接お会いしたことはないけれども劇中のドージャー先生に感銘を受けました」と話してくれました。
 『西南学院中学校三十年の歩み』(1977.3.1発行、学校法人西南学院)にも、「建学の精神への積極的なアプローチを試みる優れた労作といわなければならない」と賞賛されているように、中学生が書いたとは思えないようなよく練られたプロットで、ドージャーの人柄や人となりがよく表れています。
(SEINAN Spirit No.186  2013年 9月26日発行)

切手になったラガーマン

No.32

▲1953年第8回国民体育大会の記念切手

 全国高専ラグビー大会で1947(昭和22)年から三連覇を果たした西南学院専門学校時代のラグビー部ですが、その後は大学に行く卒業生も多かったようです。そうした中、全国大会三連覇の原動力となった斉藤守高さん(旧制専門学校経済科1949年卒業)をはじめ3人がラグビーを続けるために慶應義塾大学に進学し、同大学でも主力選手として活躍しました。
 1953(昭和28)年9月、イギリス・ケンブリッジ大学ラグビー部が初来日し、慶應大と対戦したという『スポーツニッポン』の記事がありますが、その試合でもきらりと光るプレーがありました。「…(中略)後半の終わり、慶大がしばしばケンブリッジのゴールに迫りながら、ドロップアウトになったプレーはあきらめられぬものがあったろう。特に斉藤のインターセプトに続き、龍野が快走して左ゴール隅に突っ込みながら、ドロップアウトとなったのは惜しまれるプレーである。(後略)」(『スポーツニッポン』1953.9.14付)。この斉藤選手の独走の写真が郵政省(当時)の目に止まり、1953年第8回国民体育大会の記念切手のモデルとなりました。前夜の雨でグラウンド・コンディションが悪い中、試合結果は3対14とケンブリッジ大学の貫禄勝ちとなりましたが、斉藤選手の40ヤードの快走にはひやりとしたことでしょう。
(SEINAN Spirit No.187  2013年 11月27日発行)

「つるべ渡し」の復活

No.33

▲1960(昭和35)年の短大児童教育科の「つるべ渡し」。司式は福永児童教育科長

 今年も3月の児童教育学科の卒業謝恩会で「つるべ渡し」が行われます。つるべ渡しとは、井戸の水を汲むために使う桶(おけ)の「つるべ」に卒業生が自分たちで選んだクラスカラーのリボンを結び、在校生に受け渡すという行事です。「つるべ」は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4.14)という聖句を踏まえ、「まことの水脈にふれて生命(いのち)の水を汲むものとならん」という幼児教育に携わる者の精神を受け継ぎ、さらに渡そうという理念の象徴でした。
 そもそも児童教育学科は、今から74年前に創立者C.K.ドージャー夫人のモード・バークの熱い祈りによって建てられた西南保姆学院に遡ります。同学院の建学の精神と目的は「キリストによる女子教育で、世の光、地の塩となる人材を育成すること」で、その精神を福永津義(後の福岡保育専攻学校校長、短期大学部児童教育科長)が引き継ぎ、福永の発案で、1946(昭和21)年の福岡保育専攻学校の第5回卒業式で行われたのがつるべ渡しの始まりでした。
 児童教育科の教育は単なる知識の習得ではなく、生命を大切にするというキリスト教に基づいた教育と重なって脈々と受け継がれてきましたが、短大が4年制大学に移行した1975(昭和50)年に一時、中断してしまいました。しかし、1990(平成2)年に児童教育学科の創立50周年を機に卒業記念謝恩会で伝統のつるべ渡しが復活することになったのです。それ以来、つるべ渡しは形を変えて受け継がれており、卒業生にとってその精神とともに鮮明な記憶として、忘れられない思い出となっているでしょう
(SEINAN Spirit No.188  2014年 3月17日発行)

元寇防塁の記念碑

No.34

▲写真上/元寇防塁の石で積まれた石組みと記念の石碑 (旧西南学院高校の西門通用口)
▲写真下/現在、筥崎宮に展示されている石碑(写真提供:元西南学院高校教諭柴田道明氏)

 大学1号館のライトコートに元寇防塁を復元した遺構があります。1号館の新築に伴い発掘された遺構は、元寇防塁の研究に新たな視点を提供する貴重な史料であることから、1999(平成11)年に移築復元して一般公開しています。
 それとは別に旧西南学院高校の西門通用口(現東キャンパス)の上に元寇防塁の記念の石碑がありました。西日本新聞には「地元の古老によると、大正十一年ごろ市道が造成された際、防塁の石が数個出土したため、この石を道路沿いの石組みの一部に使い『元寇防塁址』石碑を建てた」という記事(1987年11月13日付)が残っていました。
 石碑には「弘安四年五月元軍十寓此の地に来る我軍石壘に據りて防戦士気大いに奮ふ為に敵軍上陸する事能はす七十餘日空しく海上に漂ふ是れ即ち當時の防壘石也」という防塁の由来が刻まれていたのですが、1989(平成元)年に開催されるアジア太平洋博覧会の工事車両の通行のため道路を拡幅しなければならず、やむなく1987(昭和62)年に撤去されました。地元の人々にとっては「貴重な史跡が西新から消えていくのは寂しい」という声もありましたが、すでに本来の防塁の位置から動かされている上、手も加えられていることから厳密には遺構とはいえず、石碑だけが残されることになりました。
 その後、石碑は西南学院高校に保管されていましたが、筥崎宮から譲り受けたいとの申し出があり、現在、境内に他の元寇防塁に関する資料とともに保存されています。その石には「西南学院高等学校校内にあったのを此の度縁深い当宮に移築したものである」とその経緯が記録として刻まれています。
(SEINAN Spirit No.189  2014年 6月25日発行)

『指令並ニ達書類綴』―学院の逼迫した財政を示す貴重な資料

No.35

▲西南学院から発信した文書は、手書きの写し、または和文タイプのカーボンコピーで保存されている。

 古い記録を調べていると以前紹介した『学院沿革簿』と同時期に作成されたと思われる『指令並ニ達書類綴』というA4判の冊子があり、福岡市や福岡県、また文部省宛の1918(大正7)年から1945(昭和20)年までの申請書類などが綴じられていました。
 その中で、1937(昭和12)年6月15日、福岡県知事畑山四男美宛てに願い出た「西南学院中学部ニ対シ県費補助ノ件稟申」という補助申請の文書がありました。これは、世界的な不況でアメリカ・ミッションボードによる西南学院への寄附が減少したため、学院財政が逼迫し、補助を願い出たものだったのです。一連の申請書類の中に、「米国ヨリノ寄附額調」として、1928(昭和3)年度から1937(昭和12)年度までの寄附金の推移を示す資料があります。それによると、寄附額は1932(昭和7)年の17,412円をピークに1936(昭和11)年には4,838円と約72%も減額されるという大変厳しい状況でした。
(参考:昭和7年頃の白米10kgの東京標準価格は1円41銭だった。 <『値段の(明治・大正・昭和)風俗史』1981年、朝日新聞社>)
 西南学院は、創立当時からミッションボードの寄附で支えられていたのですが、太平洋戦争直前の国際情勢の悪化により、日に日に非難の声が強くなったため、財政的に独立しなければなりませんでした。1940(昭和15)年の臨時理事会では、やむを得ず寄附行為で定められていた「合衆国サウザーン・バプテスト・コンヴェンションよりの定期寄附。但し中学西南学院への定期寄附毎年約二万二千円也」という項目の削除を決定し、寄附の受け取りを拒否しています。
 また、1942(昭和17)年、文部大臣橋田邦彦宛て学則変更申請書には、学費値上げのための理由として「本学院中学部経費は、授業料の収入をもって支弁し、その不足金は従来米国南部バプテスト伝道会社より年々補助を受け来たりしも昨十六年度よりかねて希望せし財政独立を断行するに決し、右補助金を拒絶いたりし候ために直ちに財政的苦境に立ち職員の臨時手当、家族手当の維持、職員採用、風水その他による破損修理、時局向諸設備等に支障を来たし困却いたしおり候」と当時の厳しい財政状況を示す資料も綴じられています。
(SEINAN Spirit No.190  2014年 9月25日発行)

百道海岸のバプテスマ

No.26

▲西南学院バプテスト教会の牧師としてバプテスマを行うC.K.ドージャー(1928年頃)

 西南学院の教育の中心はキリスト教ですが、その中でも「バプテスマ(浸礼による洗礼)」に重きを置くバプテスト派です。学院創立者で宣教師でもあったC.K.ドージャーも牧師として西南学院講堂(現大学博物館)で礼拝を行い、百道海岸でバプテスマを行っていました。キリスト教の入信の儀式であるバプテスマは、聖書に「人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マタイ 3:5-6)とあるように、受洗者の全身を水の中に沈めることで、「古い自分」を捨て(死)、キリストと共に新たな神の命へ生まれてくる(生)という復活を意味しています。
 西南学院バプテスト教会が正式に発足したのは、1922年12月で、初代の牧師としてドージャーが選ばれました。その当時、まだ独自の会堂がなくバプテスマを行う設備や施設もなかったため、冬でも海でバプテスマを授けました。「十二月二十三日、教会設立後はじめてのクリスマスを祝したが、この日第一回受浸者としてドージャー牧師より、寒風吹きすさぶ百道海岸でバプテスマ受けたのは三串一士、藤崎九州男、溝口梅太郎、有田秀代、藤井泰一郎の諸兄姉であつた」(『西南学院バプテスト教会三十五年略史』、1957、P5)。
 この資料にも出てくる溝口梅太郎は、福岡高等商業学校(後の福岡大学)の創設者で、西南学院高等学部時代にドージャー院長の感化を受け、2年生の1922年12月に牧師のドージャーから百道の海岸でバプテスマを受けました。
(SEINAN Spirit No.181  2012年 6月29日発行)

西南学院の英語劇

No.27

▲E.S.Sのシェイクスピア劇『ハムレット』より(1973年)

 大学の前身である高等学部は1921年に開設されました。E.S.Sはその2年後に発足し、当時珍しかった外国人教師が6人も教鞭をとっていたこともあって、その指導により西洋文化を理解しようと、英会話を学び始めました。「語学の西南」というイメージはこれらも一因だと思われます。E.S.Sは、スピーチやディベートなど様々な活動を行っていましたが、英語劇もその一つでした。英語劇は一場面だけの短いものにもかかわらず、レベルが高いと好評で、同部に所属していた伊藤俊男先生(第10代院長)や田中輝雄先生(第15代院長・第7代学長)も在学中に主役を任されました。
 1938年にA.グレーヴス先生が同部の顧問となり、先生の専門であったシェイクスピアの作品を取り上げて熱心に指導されました。新制大学の開設後、本格的に取り組み、『ヴェニスの商人』を上演。その後、『マクベス』、『オセロ』など年1回の公演を重ね、グレーヴス先生が1976年に定年退職で西南学院を離れられるまでシェイクスピアの英語劇を続けました。
 E.S.Sの英語劇の終了と前後して、1973年から本場イギリスの巡回劇団であるロンドン・シェイクスピア・グループの公演を本学で行うことになりました。この劇団は、イギリスの舞台俳優男女7人程度の小編成で、背景も大道具や複雑な照明は使用せず、一人の俳優が複数の役を演じるユニークな演出が特徴。1991年まで5回の公演が行われ、レベルの高いパフォーマンスで観客を魅了しました。その後はインターナショナル・シアター・カンパニー・ロンドン劇団に引き継がれ、昨年で6回を数えています。
 新制大学として開設以来、E.S.Sによる舞台が28回、プロの劇団が11回と上演されていますが、この英語劇のような「語学の西南」にふさわしい文化的イベントは、今後も西南学院のシンボルとして受け継がれていくでしょう。
(SEINAN Spirit No.182  2012年 9月28日発行)

戦時中の英語のテキスト

No.28

▲英語のテキストに『古事記』の表紙を貼って特高の目を逃れていた。

 昨年、西南学院中学部と高等学部の卒業生の吉田一之さん(高等学部英文科1943年10月繰上げ卒業)から、当時の英語のテキストをご寄贈いただきました。『Chosen Essays for Student Culture』と題されたテキストは、1941年1月20日に三省堂から発行されており、150ページで価格は70銭でした。「コーヒーが1杯15銭でしたでしょうか。パチンコもあって、玉10個が1銭でしたね。」と当時を振り返る吉田さん。
 このテキストは、三省堂が出版している「高等・専門学校用英語教科書」の1つで、一般的なものでした。ご寄贈いただいた本がユニークなのは、英語のテキストだと分からないよう『古事記』の表紙を貼ってカモフラージュしているところです。
 当時はまさに戦時中で、特高(特別高等警察の略。内務省管轄で社会運動や思想犯罪に対処するための組織)が学内に入ってきて抜き打ちでカバンの中や持ち物を調べたりすることもあったそうです。一般的に英語は敵性語と言われ、敵国の言語を学んで使ったりするのは、非国民と影で囁かれた時代でした。特に西南学院はキリスト教主義の学校ですから、特高から目をつけられていたのではないかと思われます。吉田さんも「実際、そのように本の内容が分からないようにしている学生は多かった」と語っています。
 時が移り変わり、現在は自由に勉強できる環境は整えられていますが、今では想像もつかないような当時の社会情勢を伝える貴重な学院史の資料です。
(SEINAN Spirit No.183  2012年11月30日発行)

新島襄の形見分け

No.29

▲新島八重から受け取った書籍

 NHK大河ドラマ『八重の桜』で脚光を浴びている新島襄夫人の八重。その八重から波多野培根(後に本学の前身である西南学院高等学部の教員となる)に1冊の本が贈られました。この書籍は『CHRISTIAN DOGMATICS』(本学図書館所蔵)というキリスト教関係の洋書で、新島襄が亡くなった1890(明治23)年の時期を考慮するとその形見分けではないかと思われます。
 本の見返しに「明治廿三年七月初旬 新島襄先生未亡人ヨリ贈與セラル」と波多野の墨書が残されており、また、新島襄の蔵書印とサインも残されていることから、間違いなく本人のものだったことが分かります。ちなみにこのサインは「Joseph H.Neesima Kioto Japan.」とありますが、新島が若き日に国禁を犯してアメリカに渡った時、“ジョセフ”と名乗ったことによるものです。
 もともと波多野は、同志社英学校の学生で、校長だった新島襄から学問的、人格的に感化を受けて受洗し、熱心なクリスチャンでもあったことから目をかけられていました。その証に、新島は最後の病床から同志社関係者へ遺言を送りましたが、その1通を波多野に宛てています。「将来は同志社の骨子の一つとなり、もって尽力せられんことを切望す」(同志社社史資料センター所蔵)との遺言で、まだ学生だった波多野に対する期待の大きさが伺える内容です。それゆえ自身が師と仰ぐ新島の遺言として同志社の将来を託された時、22歳の学生の波多野が大きな感銘を受けたことは察するに余りあります。
 それから半年が過ぎ、この本が贈られて、波多野はあらためて新島襄に対する敬慕の念をさらに強く感じたことでしょう。
(SEINAN Spirit No.184  2013年3月25日発行)

学院沿革簿

No.30

▲学院創立期の詳細を記録した『学院沿革簿』

 西南学院が旧制中学校としてスタートし、順調に歩みを進めていったころ、その歴史の振り返りとしてまとめられたのが、『学院沿革簿』です。この資料がいつ作成されたかは明確な記録が残っていませんが、1921(大正10)年に西南学院本館(現在の大学博物館)の定礎式が行われた際、下記のように「学院史沿革書」がいっしょに埋められたという記録があり、それをきっかけにこの『学院沿革簿』が作られ、年毎に記録されていったのではないかと思われます。
 大正九年九月九日当学院本館起工ニ際シ定礎式挙行セリ
  一、聖書壱部 一、学院沿革書一 一、学則一
  一、職員并ニ理事生徒人員簿一
   右記念物トシテトタン板製箱詰トシテ埋蔵ス(『学院沿革簿』)
 また、同資料にはC.K.ドージャーが宣教師として日本に着任した1906(明治39)年から、「私立西南学院」の創立をはじめ高等学部の設置、さらに新制大学の発足後、古賀武夫が学長に就任した1957(昭和32)年まで、約半世紀の歴史がまとめられています。
 これを記述したのは、筆跡から判断して複数名いると思われますが、最初に書いたのは中学部書記と言う役職にあった森田健次郎と思われ、『学院沿革簿』の記述の最初の部分では「森田」の訂正印があることから推測できます。
 同資料の構成は「学院沿革」、「学院位置並びに設備」、「入学志願者の部」、「職員の部」、「卒業生の部」、「卒業生その他の寄贈品の部」と6つの分野に区別されており、入学者の数、教職員の氏名、卒業生数や寄贈品など、必要と思われる数字などが丹念に記録されています。中でも興味深いのが、「寄附品之部」の記述で、その最初には「一、大時計 壱個 第壱回卒業生之寄贈(大正十年三月)」と書かれており、現在、学院史資料室に所蔵している柱時計(以前、旧西南学院本館に飾られていた)のことではないかと調査しています。
(SEINAN Spirit No.185  2013年 6月27日発行)

誰が名付けたのか「ラバーズ・レーン」

No.21

かつて「ラバーズ・レーン」と呼ばれていた小道

いつごろかは定かではありませんが、本学と修猷館高校の間の市道が学生の間で「ラバーズ・レーン」と呼ばれていた時期がありました。これは1965(昭和40)年頃に市道が10mほど南側に移設される以前のことで、1963(昭和38)年度の『大学要覧』には「春の若葉、秋の紅葉、大学の行きかえり通るみちLovers’Laneと云われる思い出のみち」というキャプションとともに以下の写真が掲載されています。
さらに1962(昭和37)年度の卒業アルバムや1967(昭和42)年度の『学生便覧』にも写真が掲載されており、深い緑が生い茂り、赤いレンガ塀の続く大学の南側の道は、恋人同士が仲良く歩く姿をイメージして学生の間で名付けられたものと思われます。その後、道の移設とともにラバーズ・レーンという親しみのある愛称も使われなくなりました。今では、通学の行き帰りの風景はずいぶん変わりましたが、その当時の学生には思い出に残る場所だったことでしょう。
(SEINAN Spirit No.176  2011年3月24日発行)

「ドッグウッドの伝説」

No.22

大学博物館玄関横の柱のデザイン

皆さんは「ドッグウッドの伝説」を知っていますか。「ドッグウッド」(dogwood;日本名「ハナミズキ」)は、南部バプテスト連盟国際伝道局のあるバージニア州で「州の花」に選ばれています。また。ジョージア州(C.K.ドージャーの故郷でもある)のアトランタは「ドッグウッドの街」として知られ、毎年4月の開花の時期に合わせて“ドッグウッド・フェスティバル”というお祭りが開催されています。
伝説によると、その昔、ドッグウッドはとても丈夫な木でしたので十字架の材料として使われていました。そしてイエスがかけられた十字架にも使われていたのですが、ドッグウッドはそのような残酷な目的のために使われることが辛くてたまりませんでした。そんな苦しむ姿を見かねたイエスはドッグウッドをなぐさめ、二度と十字架の材料にされないよう、細く、折れ曲がった幹とし、4枚の花びらは短く、十字架の形にしました。花びらの先端には、薄茶色の磔(はりつけ)の釘と錆びと血の跡を残し、花の中心には、小さなイバラの冠をつけたという言い伝えです。
かつて、宣教師で英文学の教鞭を執ったグレーヴス先生(1938-76年在職:1940-47は太平洋戦争のため離日)は、このハナミズキを好んで育てておられ、そのうちの1本は、現在、移植されて西南子どもプラザの前で可憐な白い花を咲かせています。大学博物館の玄関の柱には、ハナミズキをモチーフにしたようなデザインがありますが、それが何なのか、現在、調査中です。
(SEINAN Spirit No.177  2011年7月8日発行)

皇紀二千六百年記念の国旗掲揚台

No.23

かつての大学博物館のすぐ北側にあった国旗掲揚台(西南学院高等学校『開設40周年記念誌』より)

太平洋戦争中、国際情勢の悪化によりキリスト教主義学校ということで、西南学院は圧迫を受けた時期がありました。そのような世間の批判を恐れるとともに協力的姿勢を表すために「皇紀二千六百年記念」の国旗掲揚台が西南学院に建立されたのをご存知ですか?
そもそも「皇紀二千六百年記念」とは、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年として計算する方法で、西暦よりも660年前に建国したとして日本の歴史と伝統を誇示しようとする国策によるものでした。紀元節と呼ばれ1940年11月10日に国を挙げて式典などを行ったこの祭りには、ほとんどのキリスト教主義学校が積極的に協力しました。
本学院に建立されたこの国旗掲揚台には、「皇紀二千六百年記念」と彫られ、裏には「昭和十五年十月三十日 西南学院中等部 同商業学校」の文字が刻まれていました。石碑の大きさは、1m32cm、3段の台座で支えられ、台座から計ると2m83cmという堂々としたもので、国旗掲揚のためのボルト2個が取り付けられていました。場所は、当時、中学部の運動場の南側で現在の大学博物館に近いところに設置されていましたが、1983年、高等学校の本館棟の建築に伴い、グラウンド北側のバックネット裏に移築され、その後、2010年8月に撤去処分されました。この”負の遺産”とも言える国旗掲揚台も戦争の記憶として残しておくべきだったのかもしれません。
(SEINAN Spirit No.178  2011年10月1日発行)

ボールデンとハム製造法

No.24

昔の面影がしのばれる二の岡山荘の教会

1932(昭和7)年7月、日曜日問題の影響で院長を辞し、学院を去ったG.W.ボールデンは、一時アメリカに帰国。しばらくしてから自費で日本に戻って、来日以来住み慣れた別荘がある御殿場の二の岡に落ち着きました。
静岡県御殿場市は、当時、避暑地として多くの外国人が、ひと夏を過ごすために集まってきていましたが、そこでボールデンは、二の岡のアメリカ村の村長として、地元の人たちにハムの製造法や豚、七面鳥の買い方、家具の製造法などさまざまな知識と技術を教えたのです。それらは地域の産業がなく、農業だけで暮らしていた村人たちに大きな副収入となりました。それ依頼、手作りのハムにこだわり、今では御殿場の名物になっている「二の岡フーズ」は、ボールデンから教えられた作り方を守っています。そのかたわら、ボールデンは、小さな礼拝堂で村民たちにキリストの福音を伝え、また、賀川豊彦が提唱する「神の国運動」では御殿場農民福音学校でも教えたことにより、村民から慕われました。
しかし、時代は戦争へと進んでいきます。ボールデンも最後まで二の岡にとどまろうとしましたが、ついに1941(昭和16)年、日本を離れることになりました。その後は、アメリカ各地の教会で牧師として働いて、1967(昭和42)年87歳で天に召されました。
(SEINAN Spirit No.179  2011年12月21日発行)

グレーヴス先生と生け花

No.25

日本文化を外国に紹介したグレーヴス先生

西南学院高等学部から大学文学部英文学科を通してシェークスピア作品を中心に教鞭をとっていたA.グレーヴス先生が、草花が趣味だったことはご存知でしょうか。女子学生の会が1958年に生け花、読書、歌と3つのグループに分かれて活動を始めたとき、草花に造詣が深いということで、生け花の顧問をグレーヴス先生に依頼しました。「当時、安達式華道の大串華潮先生の下でいっしょに習いました。グレーヴス先生は、その後、その道を極めて教授格になられ、福岡で全国組織の“生け花インターナショナル”を福岡で活動を始めて福岡支部長も務められたんですよ」と語ってくださるのは、女子学生の会の会長で生け花を始めた原田宏美さん(文英文1962年卒)。「先生は草花が好きだったけれども、生け花という日本の文化を外国に紹介しようという意図があったと思います。その頃、日本は敗戦で気持ちも落ち込んでいましたから、どうにかして元気付けようと思ったんじゃないでしょうか」。
生け花インターナショナルは、流派に関係なく、生け花をとおして国際交流を深めるのが目的で、世界中に162の支部を持つ団体。その福岡支部をグレーヴス先生が立ち上げ、当時、日本文化に興味を持つ基地内のアメリカ軍将校夫人や宣教師夫人などに広めました。昨年の10月21日、福岡支部の45周年を祝うパーティーが西南クロスプラザで行われ、福岡支部の設立に功績のあったグレーヴス先生に思いを馳せました。
(SEINAN Spirit No.180  2012年 3月26日発行)

樹木が伝える物語

No.16

メインストリートの夾竹桃も今では7mを越す樹に育った

キャンパスにはいろんな樹木や草花が植えてあり、西南の歴史を静かに見守っています。 メインストリートの夾竹桃(きょうちくとう)は、メアリー E.ドージャー夫人が、1969年に亡くなった夫エドウィン B.ドージャー院長(第9代)を記念して1973年ごろ植樹されたものだと言われています。
また、A.グレーヴス先生はアメリカ・バージニアの「州の花」である花みずきを残して1976年に帰国されました。よく見ると花の形が十字架に見えるので、先生の一番のお気に入りの花でした。旧1号館北側に植えられたのですが、現在移植され、西南子どもプラザの前で可憐な花を咲かせています。
学生の寄贈もありました。1955年度の短期大学部卒業生が1万円を募金して、大学チャペルの裏(旧玄関)にヒマラヤ杉12本を寄贈しています。短期大学部が開設されてから5年目のことでした。
また2005年には大学の女子同窓会が20周年を記念して、博物館の前にある花壇にゆりを植えており、道行く人々を楽しませてくれました。これらの他にも樹木にはそれぞれの思いが伝わっており、物語があるのです。
(SEINAN Spirit No.171  2009年12月10日発行)

西南人の心意気―キリスト教撲滅運動に抵抗

No.17

事件を報じた九州日報の記事(1940年9月25日付)

1940年9月24日、福岡市西中洲県公会堂において、興亜青年連盟主催で「キリスト教撲滅演説会」が行われました。当時、太平洋戦争が勃発する直前のことで、キリスト教に対する圧迫も、次第に露骨になってきたころです。その演説会でも主催者が大学や学校の教員に対し、離宗勧告やキリスト教主義学校などの閉鎖等を訴えました。そして最後に「キリスト教撲滅のために天皇陛下万歳を三唱しよう」と提唱したのです。
この演説会に母校存続の危機感を持った西南の学生や近郊のキリスト者らも聴衆の中に混じっており、主催者の話を聞いた福岡メソジスト教会の大野牧師が「キリスト教撲滅のために万歳は三唱しない」と発言したため、混乱状態となり、血気盛んな西南の学生も警察に連行されました。
また、翌日には九州日報がこの件を報じ、それを読んだ学生が新聞社に大挙して押しかけて、「我々は天皇陛下に対し万歳を反対したのではない」と抗議したのです。このことは、母校西南に対する帰属意識を高め、西南人をして、かえって、西南の存在の意義と使命とを、新たに自覚させる契機となりました。
(SEINAN Spirit No.172  2010年3月26日発行)

西南学院小学校で歌われた校歌

No.18

作詞者の水町先生は、後に第4代院長として尽力された。

2010年4月に待望の西南学院小学校が開校し、4月8日の入学式には学院の各学校・大学と同じ校歌が歌われました。この校歌は1920(大正9)年10月にC.K.ドージャー院長が、翌春の第1回中学校(旧制)卒業式に間に合うよう水町義夫先生に依頼したものでした。
その当時を水町先生が『西南母校だより』に語っています。
「…その頃、私は『新約聖書』の「ヨハネの第一の手紙」を読みふけっていましたので、同書からいろいろヒントを得、また、学院の位置・環境等を頭の中に描きながら筆をすすめました。…「海の青」も「松の緑」も、若々しい「青春の色」であり、「希望の輝」であり、伸び行く「若き西南」の将来を祝福しているというのです。」(『西南母校だより』西南学院同窓会、第1号、1944年10月25日発行)
1921年には中学校の卒業生を受け入れるため、高等学部を新設し、その入学式でもこの校歌が歌われました。水町先生が、歌詞に中学や高校など学校を特定する言葉を用いなかったのは、そのためではないかと思われます。
ちなみに校歌の表記が学校によってあいまいなので、(「希望の輝き」と「希望の輝」など)、正式な表記が1985年5月2日に常任理事会で承認されました。なお、表記については大学のホームページの「大学概要」をご覧ください。
(SEINAN Spirit No.173  2010年7月9日発行)

キャンパスに石灯籠?

No.19

写真上/現在のクロスプラザ付近にあった旧西南会館と石灯籠
写真下/学術研究所の玄関横に移設された石灯籠

学術研究所の玄関の横に石灯籠があるのにお気づきでしょうか。大学のキャンパスに石灯籠はしっくり来ないような気がします。これは、1937年に現在のクロスプラザ(東キャンパスの西側)の位置に、学院の学生・生徒や教職員の集会所として旧西南会館(現在の西南会館と区別するため「旧西南会館」とする)が建築され、その玄関に石灯籠が備えられました。竣工当時『西南学院新聞』は、「…、玄関の前には灯籠を設けて日本趣味を盛り、…」(第26号、1937年11月11日発行)と報じています。この年、日中戦争が勃発し、国民精神総動員運動が声高に叫ばれました。石灯籠が設置された理由は、和風な趣を加えるためか、あるいは軍の命令や時節に配慮したのか、記録がなく詳細は分かっていません。
1971年11月に大学に新しい集会所が完成して「西南会館」の名称を譲ることになり、新しい施設は「大学西南会館」と呼ばれ現在に至っています。旧西南会館は、その後も使用されることなく在置されていましたが、老朽化が激しく危険でもあったので、1975年に解体されました。残された石灯籠は本館前ロータリーに移設されましたが、そこも1992年に本館前の整備に伴いさらに移され、現在は学術研究所のエントランスの小庭園の一角を飾っています。
(SEINAN Spirit No.174  2010年10月1日発行)

遺訓が刻まれた暖炉の木枠

No.20

写真上/西南学院小学校のエントランス
写真下/山の家にあったころの木枠とC.K.ドージャー夫人(1959年)

今年開校した西南学院小学校のエントランスを入ると、建学の精神「西南よ、基督に忠賓なれ」と彫りこまれたモニュメントが目に留まります。これは、西南学院が誕生した大名町(現在の中央区赤坂)から西新キャンパスへ移転した翌年の1919(大正8)年に建てられた旧制中学部第二校舎の古材から作られたもので、現在の大学博物館(1921(大正10)年竣工の旧西南学院本館)よりも古く、その意味では学院でもっとも歴史ある貴重な資料です。
中学部の第二校舎は、高等学校の西校舎として使用された後、改築のために解体されました。その古材と南部バプテスト連盟からの寄付によって旧干隈キャンパスに建てられたのが、干隈修養会館(1952(昭和57)年)竣工の通称「山の家」)でした。創立者ドージャーの遺訓が刻まれた趣のある暖炉の木枠は、1982(昭和57)年に解体されるまで30年間に亘り学生や教職員の団欒を暖かく見守ってきたのです。
「山の家」の解体後、この木枠は学院史資料として保管され、本館のエントランスに展示されていたところ、2010(平成22)年1月、小学校の校舎竣工にあわせて貸し出されることになりました。学院の最も古い資料が、最も新しい学校に飾られるというのは意味深いことではないでしょうか。
(SEINAN Spirit No.175  2010年12月24日発行)

11月7日は波多野培根先生記念日(1)

No.11

英語、ドイツ語の他、ギリシャ語、ラテン語、ヘブル語にも精通していた

11月7日は波多野培根(はたの・ますね)先生記念日ですが、どのような功績があったかご存知でしょうか。
波多野先生は、1868年に津和野藩の儒学者の家に生まれ、18歳で同志社英学校に入学しました。そこで創立者新島襄に感化を受けキリスト教に入信。卒業後、教育界、宗教界へ進み、校長として同志社普通学校(後の同志社中学)の発展に尽力しました。
その後、西南学院の理事でもあった宣教師E.N.ウヮーンの紹介で、1920年、創立間もない西南学院中学部の教授として赴任。また翌年に開校した高等学部でも講師として教鞭を執りました。当時、53歳でした。
いっさいの役職につかず、ひたすら学問研究と学生生徒の教育に、その生涯を捧げ、明治・大正・昭和三代を学問ひと筋に生きた碩学の人でした。(次号に続く)
(SEINAN Spirit No.166  2008年10月5日発行)

真の愛国を問う-「基督と愛国」
波多野培根先生記念日(2)

No.12

速記録に波多野が筆を加えた「基督と愛国」の原稿

波多野は、大学の前身である開設したばかりの高等学部の教師として哲学、倫理学、歴史学を教え、儒教思想と聖書の信仰に立つ古武士的教育者、思想家として学生・教員に多大の感化を与えました。
この時期は、日露戦争(1904年)から第一次世界大戦(1914年)、さらに日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)に至るまで日本が 軍国主義に染まっていった時代でした。
日本の教育が偏狭な独善的愛国教育に傾いていったとき、波多野の道義的歴史観に立つ愛国教育は、これと対立せざるを得なかったのです。そして 1944年6月、西南学院精神文化研究所の開所式で「基督と愛国」と題した記念講演を行い、「自己の国家の利益のみを考えて他国を顧みない本能的愛国と、正義人道を標準とする道義的愛国」とを比較し、後者のみが国家を永遠の安泰に置くものと語りました。
(SEINAN Spirit No.167  2008年12月5日発行)

戦時下のキリスト教主義教育の拠りどころ
波多野培根先生記念日(3)

No.13

洋服を着用せず、羽織・袴の和服で通した

波多野は、講演した「基督と愛国」の写しを文部大臣以下、全国の主だった教育関係者に郵送することを望んでいましたが、実現しませんでした。
その後、憲兵隊や特高警察に監視されていたため学院に迷惑がかかるのを恐れて、1944年8月、京都の自宅に帰りましたが、その翌年、11月7日に78歳で天に召されました。
中学部、高等部で23年間、ひたすらキリスト教主義教育に身を捧げた功績により1950年から学年暦の中に「波多野培根先生記念日」が設定された のです。また蔵書(2,357冊)は本学図書館に寄贈され、「波多野記念文庫」として設置されています。その後、薫陶を受けた教え子によって、 1977年、遺稿集『勝山餘籟ショウザンヨライ』が編集されました。
その生涯は、西南学院の学生、教職員にとって単なる教育者というだけでなく、戦時下の厳しい状況の中、キリスト教主義教育の拠りどころでもあった のです。
(SEINAN Spirit No.168  2009年4月5日発行)

英語で通したグレーヴス先生

No.14

生け花にも造詣が深かったグレーヴス先生
(Alma O.Graves 1907-2000)

カレッジソング”Ah,Seinan!”の作詞者で知られているアルマ・グレーヴス先生は、学院の歴史のなかでもひときわ西南学院に影響を与えた人物でしょう。 1938年に西南学院高等学部(大学の前身)の英語・英文学の教授として着任され、戦時中は一時帰国。戦後まもなく再来日され、その後、1976年の帰国まで約40年間の長きにわたり学生の教育に尽力されました。
なかでもユニークなのは、日本語は堪能なのに、学内では英語を通されたことです。授業だけでなく勉強・訓練のためと思われたのか、英語で話しかけられたことは、当時の学生の思い出話によく登場します。
また、E.S.S.やグリークラブの指導などにもその才能を発揮しましたが、特にE.S.S.の英語劇では発音を徹底して練習させるなど、「語学の西南」に多大な貢献を果たした名物教授でした。
(SEINAN Spirit No.169  2009年7月10日発行)

ドージャーのドキュメンタリー番組-「愛と剣と」

No.15

番組の宣伝で作成されたチラシ

創立者C.K.ドージャーの生涯を描いたテレビドキュメンタリー「愛と剣と」が1986年10月に放映されたことはご存知でしょうか。これは西南学院創立70周年の特別番組として西南学院が企画し、RKB毎日放送が制作したドキュメンタリー番組。チーフディレクターの木村栄文氏は本学の OB(1959年商卒)で、ドキュメンタリーの分野では数々の受賞歴を持ち、業界では著名なディレクターでした。この番組には、元文部大臣の永井道雄氏、ドージャー先生の長女ヘレン・ピーチさんらが出演し、さらにアメリカではドージャーの母校マーサー大学でのロケも行われました。
その中で、当時、神学部教授だったL.K.シィート先生はドージャー役として出演され、トレードマークのあご鬚もきれいに剃った姿が映っています。
西南学院が間もなく100周年を迎えようとする今日では、貴重な映像資料となっています。
この「愛と剣と」をDVDにして貸し出していますので、ご希望の方は西南コミュニティーセンター1F広報・連携課 (TEL:092-823-3232)までご連絡ください。
(SEINAN Spirit No.170  2009年10月5日発行)

長谷川 町子さんは西新に住んでいた?

No.6

4月26日に除幕式が行われ、お披露目されたサザエさんの陶板

漫画「サザエさん」の原作は、1946年から福岡の夕刊フクニチに連載が始まりました。作家の長谷川町子さんが当時西新に住み、海辺の散歩中にキャラクターを考えたことから、海に関するものが多いのが特徴です。これを福岡市早良区役所が記念して、発案の地であることを説明した記念碑を西新6丁目の「磯野広場」に設置しました。 この国民的な人気漫画に西南学院が登場していることはご存知でしょうか。「サザエさんうちあけ話」9話に「西南学院」という門扉と中学部長住宅、松原が描かれています。その漫画では、酔って道に迷った進駐軍のアメリカ兵を西南学院の先生宅に連れていったというお話ですが、西南は英語に強いということを意識していたことでしょう。「語学の西南」はこの頃からすでにあったのです。
(SEINAN Spirit No.161  2007年7月5日発行)

ギャロット杯の由来は?

No.7

和服を着こなし、尺八も吹いたギャロット先生

E.S.S.が主催するギャロット杯争奪英語弁論大会は、大学としての歩みをはじめた翌年の1950年にスタートし、今年で58回を迎えます。英語弁論大会で全国的に著名なその名称は当時初代学長を務めたウィリアム・マックスフィールド・ギャロット先生に由来していたのです。
1934年にアメリカ南部バプテストから宣教師として日本に派遣されたギャロット先生は、旧制西南学院高等学部教授に就任。1941年、開戦後も日本に留まり、東京の神学校に奉仕していましたが、情勢が悪化し敵国人収容所に収容。やむなく強制送還させられ帰国しましたが、西南や日本を愛してやまない人でした。
1947年、戦後間もなく日本に戻ってきた先生は、西南学院の院長(第5代、第11代)、学長(初代)、理事長(第10代)、宗教局長など要職を歴任しました。日本語が堪能で日本通の先生が大学の黎明期に果たした役割は大きかったのです。
(SEINAN Spirit No.162  2007年10月5日発行)

西南学院のルーツ ~福岡バプテスト神学校~

No.8

西南学院創立には旧福岡バプテスト神学校の校舎を使っていた。

宣教師C.K.ドージャー(Charles Kelsey Dozier)が来日して最初にかかわった学校は、福岡バプテスト神学校。福岡市大名町96番地の宣教師館を校舎として今から100年前、1907年10月17日に開校式が行われました。在日宣教団の理事でもあったドージャーは、授業を担当しながら、日本人クリスチャン指導者の必要なことをアメリカのミッションボードに訴えたのです。「まだ神様の言葉を知らない日本の若者たちに伝えたい」というドージャーの熱い思いが、西南学院の源流となりました。その後、1911年、ドージャーが校長になった福岡バプテスト夜学校に繋がり、「中学西南学院」へと大きな河となっていきました。
(SEINAN Spirit No.163  2007年12月5日発行)

学院に新聞社の工場

No.9

新聞社の予備工場を予定されていた第2校舎

戦火が激しくなった1944(昭和19)年、新聞社が被災した場合の予備工場が西南学院構内に設けられていたことをご存知でしょうか。昭和19年3月18日の理事会の記録には「高等学部ハ来年度ヨリ定員半減ニ付餘剰教室ヲ朝日新聞西部本社及毎日新聞社工場トシテ校舎ノ一部ヲ貸與特用ニ関スル件」が、全会一致で可決したことが記されています。ちなみに社史「朝日新聞の九十年」によれば、毎日と朝日が共同で活版、印刷関係部門を置いたのですが、「本土空襲激化により福岡も危険になったため、熊本に第三工場を設置した」と記載されています。工場は、第2校舎全部、第4校舎の1部、合計143坪の広さでしたが、幸い1回も使用することなく終戦を迎えました。
(SEINAN Spirit No.164  2008年4月5日発行)

福大の創立者は西南OB?

No.10

在学中、ドージャー院長からバプテスマを受けた溝口氏

溝口梅太郎氏は、市立福岡商業学校卒業後、保険会社を経て日本硝子株式会社を興しましたが、当時の財界不況の中、26歳の若さで失敗。その後、心機一転しようと1921年に本学の前身である高等学部商科に入学しました。
学生時代は、硬式野球部の捕手として活躍し、卒業後は、母校で保険学、商業学などの教鞭を執りました。その傍ら、九大の聴講生として勉学に励み、「福岡に商業の専門学校を設立することが、天の時と地の利とをあわせえたものである」として、福岡高等商業学校設立の計画を発表しました。1934年に創立された同校は次第に規模が大きくなり、福岡大学として発展したのです。その後、溝口氏は同校の第2代理事長、学校法人福岡大学理事などを歴任し、同校の発展に尽力されました。今では、よきライバルとして切磋琢磨している両大学には、深い縁があったのです。
(SEINAN Spirit No.165  2008年7月5日発行)

西南学院大学の創立はいつ?

No.1

正門から見た高等学部(現学院本館付近)

中学校でスタートした学院は、今年、創立90周年を迎えます。大学は、1999年に開学50周年を祝いましたが、これは国の新学制施行による1949年の大学(学芸学部)開設を起点にしています。多くの私立大学がこの頃、新学制による大学の開設を行っています。では、大学の創立は?
前身は1921年の高等学部(文科、商科)開設に遡ります。今年、大学は創立85周年を迎えることになります。
(SEINAN Spirit No.156  2006年4月15日発行)

ランキン・チャペルの名称の由来は?

No.2

ランキン・チャペルは、1954年、米国南部バプテストの信徒たちの全額援助によって建てられました。建設にいたるまで物心両面から尽力した米国南部バプテスト連盟東洋総主事M・T・ランキン博士(1894-1953)の功績をたたえて名付けられたこのチャペルは、当時は市内有数のホールとして、市民の様々なイベントにも使用されてきました。このチャペルも老朽化が進んだため、この夏に建て替えられ52年の歴史に幕を下ろします。
(SEINAN Spirit No.157  2006年7月5日発行)

初めての女子学生はいつ入学?

No.3

新制大学英文学専攻第1回卒業生(1652年3月)

創立当初は「男子の中学校」として開設された西南学院も女子学生が過半数を占めるようになってきました。正式な女子学生はいつ入学したのでしょうか。実は1934年高等学部神学科の選科生として卒業生名簿に女子学生1名がはじめて登場しており、卒業後は、長崎の五島冨江バプテスト教会で奉職しています。その当時、神学部も「地行濱」にあったので西新キャンパスの話題にはならなかったのでしょうか。ちなみに新制大学の最初の卒業生は、1952年の104人のうち女子学生は4人。その後進学率の上昇と共に増え続け、入学した学生の男女比が逆転したのが1995年でした。
(SEINAN Spirit No.158  2006年10月5日発行)

ランキン・チャペルに注がれた熱い祈り

No.4

現在、ランキン・チャペルの取り壊し工事が進んでいますが、9月29日の工事で定礎の部分を取り外すとその奥に聖書や資料が埋められていることが分かりました。その内容は①旧新約聖書(「西南學院大學講堂新築内外バプテストの祈りと献金に支えられて 紀元一九五四年七月」の端書あり)、②役員及び教職員組織一覧表(昭和23年5月25日現在)、③講堂新築工事設計者・施工者一覧、④見取り図 No.2~No.6、⑤創立35周年記念パンフレット(1951(昭和26)年7月7日発行)でした。52年前のことが偲ばれるものですが、聖書の端書は残念ながら誰の筆跡か不明です。
(SEINAN Spirit No.159  2006年12月5日発行)

幻の西南学院バプテスト大学

No.5

西南学院バプテスト大学鳥瞰図

2001年まで干隈地区にあったキャンパスは、すでに福岡市に譲渡されていますが、1937年、そこには中学部、高等学部に続き大学を立てる計画が持ち上がったのをご存知でしょうか。それは神学部を中心とした「西南学院バプテスト大学」構想で、当時、西南学院講堂(現博物館)などを手がけたヴォーリズ設計事務所が校舎鳥瞰図を作成。水と緑豊かな地にアーリーアメリカンスタイルの校舎を配した美しいキャンパスとなっています。
しかし、この計画も戦争の影響による国際関係の悪化にともない、敷地だけの取得にとどまり実現には至りませんでした。西南学院バプテスト大学が誕生していたら、どんな大学になっていたでしょうか。
(SEINAN Spirit No.160  2007年4月1日発行)

西南学院に関する
史料・資料恵贈のお願い

西南学院史資料センターでは、所蔵する史資料を整理・公開して学内外の研究者の方々の利用に供するための作業を行いつつ、新たな学院関係史資料の蒐集にも努めています。
このため、広く皆様に学院関係史資料のご恵贈をお願いする次第です。皆様のお手元にこれら資料がございましたら、どのようなものでも構いませんのでご恵贈いただければ幸いです。